3年半ぶり2回目のフィリピンに行った話
長くなります。備忘録。まとまらないけど忘れたくない気づきのメモ。
2月後半から2週間弱、3年半ぶり2回目のフィリピンセブ島に行ってきました。
初めてセブ島に行ったのは、世界がまだコロナを知らなかった2019年の夏。
高校時代の友人がInstagramのストーリーで”フィリピンの子どもたちのためのオーケストラプロジェクト”を紹介していたのを見たのがきっかけ。
中高6年間吹奏楽部に所属していて、笑ってコラえての”吹奏楽の旅”に出てくるような厳しい練習も経験して、それなりに上位の大会に出て、音楽を通してそれなりにいろんな経験をさせてもらっていた。
私は震災のあった年、2011年に中学校に入学して吹奏楽を始めた。
最初の半年はまともに部活もできなくて、初心者だから合奏にも混ぜてもらえなくて、顧問がずっと『音楽ができるだけで幸せだ』と言っていることも、なんだかいまいち本当の意味を理解できずに、与えられた環境で、与えられた楽器とパートで、そのまま何となく吹奏楽を続けていた。
同じパートの同級生の中で、入学と同時に楽器を始めたのは私だけで、自然といちばん歴が長かったのでそのままパートリーダーになって、コンミスになって「私もしかしたら、ちょっとうまいのかな?」って思って、自分がどれだけできるのかを試したくてわざわざたくさんの中学校から生徒が集まる隣町の、大編成で吹奏楽ができる高校に進学した。
高校に入ってからも、負けず嫌いだったので、隣町から通っているからみんなより練習時間が少なくなるのが嫌で、できるだけ毎日早い電車に乗って朝練に行き、練習後も時間が許す限り自主練をした。家に帰る頃にはもう22時を回っているなんて、今考えたらハードだなあと思うけど、当時はなんともなかった。
高校でもそれなりに練習したぶんそれなりに吹けた。でも、あるときから「あ、私って多分これまでだな」って気がついて、本当は吹奏楽の強い大学への進学も考えたけど、結局諦めた。
大学でもな吹奏楽がやりたかったけど、一人暮らしで経済的な負担が大きいなあと思って、やめた。
だけどずっと「楽器が吹きたいなあ」という感情は残ってた。
何度か家の近くで活動している一般楽団の見学に足を運んだことはあるけど、どれもピンとこなくて、たまに楽器を持ってカラオケに行って、昔の曲をなんとなく演奏するような日が続いた。
そんな時、”フィリピンの子どもたちのためのオーケストラプロジェクト”に出会った。
「ブランクあってもみんなで楽器が吹けるんだ」
応募の動機はそれだけ。
今考えると安直だな〜と思うし、セブ島はインドネシアにあると思ってた。
高校の友人と一緒に参加した2019年のプロジェクトでは、初対面の人と同じ部屋で初対面の人と一緒に演奏をして、言葉のよく通じないセブの子どもたちと練習して、演奏会をするという怒涛で濃密な10日間を過ごした。
今思い出してもキラキラしてかけがえのない10日間だったなあって思う。
でもそんな中で、モヤモヤした思いもたくさん持ち帰ってきた。
セブ島というと「観光地」という漠然としたイメージは持っていたけど、そもそも観光とかリゾートにはあまり興味がなかったので、本当に何も知らずにセブに足を踏み入れた。
プロジェクトに参加してから知ったのは、セブをはじめとするフィリピンは治安が良くなくて貧富の差も大きいということ。
「東南アジアだからなんとなく地理の教科書でみたような景色なんだろうな」という浅はかなイメージは持っていたけど、実際に自分の目で見て肌で感じたものは、そのイメージとはだいぶかけ離れていた。
正直にいうと、今現在の日本での自分たちの生活水準と比較して「治安が良くない・貧富の差が大きい」と言っているに過ぎないな、と思った。
日本は治安が良くて貧富の差がないか、と聞かれると、目立っていないだけでそんなことはないと思っている。こんな片田舎でも薬物をやっているんだろうなという人は見かけるし、日本でも発砲事件や殺人事件がなくなることはない。闇に葬られているだけで、学校に行けていない子供だっている。
人間誰しも自分の育った環境や背景に囚われて物事を主観的に判断してしまうものだと思うから、これから話すこともぜんぶ多分私の主観に過ぎない。
私は、セブのいろんな環境で暮らしている人を見て少なからず「私より豊かで幸せそうだな」と思った。確かに物質的な豊かさという指標で見たら、私の方が”幸せ”であると定義できるかもしれないけど、その時の私は心の底から自分が生きて息をしてることに対して”幸せだな”とは思えなかった。
かつてセブ中のゴミが捨てられていたイナヤワン地区に行った時、「ゴミ山に住む人たち」という説明を受けた。確かに事実だけ切り取ればそうなんだけど、そこに住む人たちは笑っていた。家族と一緒に住み、幸せだと言っていた。誰かの前で面と向かって『自分は幸せだ』と言える。これ以上の豊かさは一体どこにあるのだろう。
子どもたちと一緒に演奏をした時も同じことを思った。
学生時代にうまく演奏ができない時、楽器のせいにして、リードのせいにして、何かとお金をかけた。
でも私の目の前にいる子どもは、いつ誰にもらったか分からないリードで、タンポの破れてメッキの剥がれている楽器で、楽しそうに、そして何より上手に演奏をしている。
私は何をしにここにきたんだろう?
子どもたちと楽しく演奏して、一緒に参加した日本人と楽しく過ごす間もずっとそのモヤモヤが心を離れなかった。
日本に帰国して、そんな濃密で忘れられない10日間を過ごしたはずなのに、気がつけばいつもどおりの生活に戻っている。
水道水を飲めることも、アルバイトをしてフィリピンの平均月収を上回るお金を稼いで飲み会に溶かすことも、一時的には違和感を感じていたはずなのに、気がつけばいつも通りの生活に戻っていた。
ずっと何かを考え続けることは難しいけど、「幸せや豊かさ」に対する感覚は、あのセブでの10日間を境に間違い無くアップデートされたなと思う。
その半年後にはコロナになり、私は大学を休学した。
それももう3年前の話。
そこからも本当にいろんなことがあった。
心のどこかで「またあの子たちに会いたい」という思いもあったけど、やっぱり日々の忙しさに、その感情も溶けていった。
「いつかまた行けたらいいな、と思ってる。
けど、そのいつかが来ることはあるのかな?」
なんて思ってた最中、たまたま、いろんな偶然が重なって、今年の冬のプロジェクトに応募する機会があった。
体調不良で前職を辞め、ほぼ無職に近いフリーランスという危機的状況だからこそ、まとまった休みが取れた。
今回自分自身では2回目のセブ島で2回目のプロジェクト。
そして前回よりももうちょっとプロジェクトの内側に入っての参加。
まず何よりも楽しい10日間だったなと、本当に思う。
楽しいというのは与えられた無責任な楽しさではなく、大変なことも含めて全部「よかった」っていう感情に近いかな。
そんな中での最大の学びというか気づき。
「私は自分で何かをしたくてここに来ているのではなく、セブやセブンスピリットにいる人や空気感を感じることで、自分にとっての幸せの価値観や豊かさがどういうことなのかを受け取りに来ているんだな」ということ。
前回来た時に自分が受け身だったことを後悔したから、今回はプレスタッフという立場で参加したけど、求めていた自発さみたいなものは、多分今後も達成されなさそうだなと思った。
でもそれでいいかもとも思っている。
もちろん内側に入ったからこそ見える「ああ、もっともっと英語が話せたらもっともっとこうしたい」っていう部分も出てきたけど、それより私は子どもたちと、ピノイスタッフと、そしてセブの街中を歩いているひとりひとりの人から、自分の軟弱で曲がりそうな感覚をまっすぐにしてもらえたら、それでいいかもって。
幸せっていうのは、目に見えなくて、豊かさは自分で作れるっていうこと。
そういうのを私は、純粋に音楽をして生きている子どもたちと一緒に過ごす10日間を通して受け取っている。
その過程で、この機会を作ってくれたセブンスピリットの力になりたいなって、今回改めて思いました。
大袈裟だし胡散臭く聞こえるけど、このプロジェクトを通して、音楽って好きなだけで続けていいんだなって考えられるようになったから、だからすごく感謝しています。
音楽がしたいという理由だけで関わり始めたこのプロジェクト。
難しいことは正直分からない。本当は貧困問題の抜本的な解決方法とかちゃんと考えることが有意義なのかもしれないけど、考えても問題が複雑に絡み合い過ぎて感情と理性の均衡点が分からなくなるので、他人任せかもしれないけど、そういう難しいことは専門家に任せよう。
私は私の感覚で好きだから、ここに来るし、好きだから子どもたちに会いたいし、一緒に好きなものを共有したいから楽器を演奏したい。その過程でさっき話した貧困問題やそこから生まれる負のサイクルの難しさの糸が絡まっているのを、ちょっとずつほどけているなら、それでいいなって。
なにより子どもたちが成長していく姿と笑っている姿を見れるだけで、そのほか難しいこととか全部忘れちゃうくらい幸せだからね。
まとまった時間とお金があれば、いつでも会いに行きたいな。
最後に10日を共に過ごしてくれた30人のみんな、ピノイスタッフ、大好きな子どもたち、そして準備からたくさんお世話になった日本人スタッフのみんなに、心からのありがとうと、そんなみんなが今日もみんな笑って過ごせていることを願って、備忘録を閉じます。
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