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複数の可能世界:トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』の読書会に参加しました。新潮社版の訳者である佐藤良明さんの解説も聞きましたので、4月から5月にかけてトマス・ピンチョンのこの作品のことをぐるぐると考えていたかもしれません。

佐藤さんはこの小説のタイトル:”The Crying of Lot 49”について、「タイトルと小説の終わりがまったく同じものとなっており、この"Crying”、すなわち叫びが49のLot(塊)それぞれにあるのだと読むことができる。それはアメリカ49州の中にある叫びともいえる」という趣旨のことを話されていました。

面白い解釈だなと思います。佐藤さんによれば、「主人公のエディパ・マースに遺産を残したピアス・インヴェラリティは、ある意味、アメリカ近代を貫き通す全てを象徴しており、エディパはそのすべてを相続したともいえる。しかもその内容といえば、全米に広がる《公ではないさまざま》な"The Crying"なのだ」というのです。

『競売ナンバー49の叫び』が発表された1966年とほとんど同時期の1964年にマクルーハンは『人間拡張の原理』を発表します。佐藤さんによれば、エディパの夫が中古車を売っていたこと、ラジオの放送に関わっていたことは、車やラジオという《生活のエクステンション》の象徴ではないかとも指摘していました。車もラジオもそして郵便も、身体機能を拡張するコミュニケーション・メディアなのだという読み取りでしょう。

トヨタの初代『カローラ』(1,100 cc)の登場が1966年。同年、日産からは初代『サニー』(1,000 cc)が発売されていましたが、『カローラ』は"プラス100 ccの余裕"を謳ったといいます。日産はこれに対抗して1970年の2代目『サニー』フルモデルチェンジで排気量を1,200 ccにアップします。そのときのコマーシャルのキャッチコピー「隣の車が小さく見えます」は子ども心にはっきりと記憶に残っています。《生活のエクステンション》、消費を介したコミュニケーションが、ひいては人々の生きる価値としてアピールされた時代は、日本でも同様だったのです。

そしてそのような風潮の中で、さまざまな叫びは覆い隠されていた時代なのでしょう。1977年に発表された宮本輝の『泥の河』も、時代はそのほんの少し前の昭和31年(1956年)の大阪を描いています。1960年代は池袋にも傷痍軍人風の人たちがたくさんいた頃です。

しかし、『競売ナンバー49の叫び』は私には決して読みやすい話ではありませんでした。佐藤さんの解釈も、聞けば「なるほど」と思いますが、表面上、そんなことはこれっぱかしも書かれていません。主人公のエディパはどこに行くのか、彼女が見ているものは現実なのか、それとも夢なのか、あるいは、すべては勘違いや妄想なのか、はっきりしないままに収束点なく小説は発散していきます。

《物語》として読むには私には隠喩が重層的すぎるのです。誰もが知っているカルロ・コッローディの『ピノッキオの冒険』が、辛辣な社会風刺や人間への深い洞察、不条理への直面などを内包しながら、物語としては波瀾万丈の展開の果てに《光と闇の肯定》ともいえる決着をみせているのとは対象的です。もちろん100年ほどの時間差のある二つの話を比べるのはナンセンスでしょう。しかし、いずれを《私たちの物語》として読みやすいかといえば、少なくとも私には、後者であることは間違いがありません。

以前、聖書読書会で『旧約聖書』を通読したときに、『詩編』にひどく苦労したことを思い出しました。『詩編』で描かれるさまざまな断片は、私の中で統合されることなく、バラバラのままに流れていきました。『競売ナンバー49の叫び』を読んでいるときに感じたのはその感覚に近いのです。その意味で、私にとっての『競売ナンバー49の叫び』はある種の『詩編』であり、その意味や価値を説く佐藤さんはどこか聖職者のようでした。

しかも、『競売ナンバー49の叫び』は大いなるdis-communicationの物語です。読みにくさに拍車がかかるのも当然です。世界はバラバラの軸で動いているのに、その統合は主人公のエディパの視点でしかありません。

1950-60年代の世界は──もちろん、いまもですが──矛盾に充ちています。フラワージェネレーションともいうべきビートニクスのカウンターカルチャーとマーチン・ルーサー・キング・ジュニアたちの公民権運動は同時代です。後者の運動では人々は《I AM A MAN》というプラカードを胸にストライキをしていました。問題の根源の意識にずれがあるのです。マーチン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺されたのは1968年。彼は当時39歳でした。ヨーロッパに目を転じれば、ベルリンの壁が出来たのは1961年、プラハの春は1968年。

私がビートニクスに冷たい視線を投げかけるのは、その矛盾に対して、自らの内側に物語を求めつつ、最終的には無力感に打ちひしがれ、逆に消費社会や拝金的な価値観を加速させたと思えてしまうところです。『競売ナンバー49の叫び』の世界観は本当に"The Crying"を受け止めていたのか。冷たい、沈んだ気持ちになります。

もちろん、”The Crying"は、ある意味、別の形で、たとえば《#MeToo》へと引き継がれて行ったのかもしれません。しかし、一方で、その声は谺しながら、2017年の第45代アメリカ合衆国大統領を支える人々たちの《俺たちも被害者だ》という意識へと置き換えられて行ったのではないかとも私には思えます。『競売ナンバー49の叫び』の答えのない発散性は、歪んだ形で今へとつながっていると言えないこともありません。

私自身は、『競売ナンバー49の叫び』の発散性があまり好きではありません。垂れ流しの文学のように思えてしまうからです。隠された意味を言葉に持たせる内輪受けの世界。だから、私は、佐藤さんのような神父さんのいるピンチョン教会に帰依することはできず、小説にも著者にも共感することが難しかったのです。もちろん、佐藤さんがピンチョンをつくづく好きなんだろうなということは伝わってきましたし、佐藤さんがよい人であることもおそらく間違いないことでしょう。しかし、とても残念なことに、私には『競売ナンバー49の叫び』の小説としての面白さがほとんど感じませんでした。

ただ、柴崎友香さんの『春の庭』と似た部分は面白いなと思いました。それは《一人称複数》という視点です。『春の庭』はとてもよい小説です。

『春の庭』も『競売ナンバー49の叫び』も《一人称複数》の小説ということができると私は思います。

もちろん、『競売ナンバー49の叫び』では、《一人称複数》ではなく、三人称の記述で主人公のエディパの様子は描かれていきます。しかし、そこで語られる内容はエディパの視点(のみ)です。エディパが見たもの、聞いたもの、思ったことが描かれており、他の登場人物の思いや考えは、驚くほどに欠落しています。

テロリストのアナグラムであるトリステロという謎の郵便組織も、エディパが発見する証拠の数々も、本当にそれはあるのか、あるいはエディパの妄想なのか、実ははっきりしません。エディパが見た、あったということを私たちは信じるしかないのです。すべては壁の紙魚が顔のように見えたというだけの妄想・幻覚なのかもしれません。すべてがフェイクである世界。究極のdis-communicationです。

一方の柴崎友香さんの『春の庭』は面白い小説で、何人かの登場人物がいますが、その視点や記憶は、それぞれの人のものでしかないことが、それぞれの登場人物の語りとして明らかになります。世界は誰かの重ならない思いで出来ていることが巧みに描かれています。違うけれど一つの世界。一つの世界なのに違う世界。二人の著者の人としての方向感は真逆です。私にはそう思えたのです。

『競売ナンバー49の叫び』でも、もし、小説のその他の登場人物がそれぞれに語りだすと、エディパが考えたものとは異なる世界が立ち上がってくることでしょう。その点が『春の庭』的に読むと面白いかもしれない視点です。ただ、『競売ナンバー49の叫び』の登場人物たちの視点の差異は、解消もされず昇華もされず、ただ虚無へと吸い込まれていくように私には思えます。

《一人称複数》。それはある意味、当たり前のことです。世界は《一人称複数》で構成されているのです。私とあなたではなく、私1、私2、私3・・・私n・・・・の重ね合わせです。

ですから、近所なる放置された庭は、私やあなたには見たままの荒れ果てた存在かもしれませんが、今はいなくなってしまった庭の主にとっては意味や思い出が重ね合わされるのかもしれません。あるいは、そんなものはなく、「たまたまの偶然や思いつきだったんだよ」ということかもしれない。それはある種の可能世界です。しかし、それはどこか暖かな視点に支えられています。

もし、『競売ナンバー49の叫び』に現代的な価値があるとすれば、世界が《一人称複数》でしかないことを、今更ながらに突き付けてくるところにあるのかもしれません。ただ、それを垂れ流しのごとくではなく、『春の庭』のように、もっと上手に書けばよいのにと私は思います。

『競売ナンバー49の叫び』は、矛盾に充ちた世界は憂鬱だなと思いしらされます。言葉を選ばずにいうと私には冗長で嫌な小説でした。そこで描かれる世界は、憂鬱で本質的な矛盾に充ちており、しかも救いがないからです。

『競売ナンバー49の叫び』は、複数の可能世界の、ひとつの極北なのかもしれません。

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