恋は偶然か必然か?:チェーホフ『犬を連れた奥さん』
恋という言葉を聞いてまっさきに思い浮かぶのは、石坂洋次郎の『青い山脈』、だから、恋の話は魚屋で本を買うがごとくにピントが合わない。
明解さん(新明解国語事典)も恋には比較的冷淡かもしれない。
『語感の辞典』の中村明氏はもう少し淡々と、そして優しい。
チェーホフの『犬を連れた奥さん』を読んだ。恋の話、なんだろうと思う。読んだのは読書会の課題本だったからで、チェーホフはいつもよくわからなくなる。
読書会で同じテーブルになったお一人は開口一番「これって不倫の話だよね。不倫小説だね」という。確かに主人公のドミートリイ・ドモートリチ・グーロフも、犬を連れた奥さんと呼ばれるアンナ・セルゲーヴナもそれぞれに既婚者だから、世間一般の定義では不倫であり、この小説は不倫小説となる。
不倫小説。まぁ、そういうジャンルが存在するとは思うけれど、そこで止めてしまってはさすがに・・・・と思う。恋の定義を辞書で調べる私であっても。
たとえば、映画にもなった『マディソン郡の橋』。美しく儚く苦く、ドロシーには見せたくないと思った映画であり小説だ。映画.comには「たった4日間の恋に永遠を見いだした中年の男女の愛を描いた大人のラヴストーリー」だと説明がある。『マディソン郡の橋』以来、私はドアを後ろ手でバタンと乱暴に閉めることはしまいと心に誓った。
だから、チェーホフの『犬を連れた奥さん』も外形的には不倫小説かもしれないが、恋の話だとする方がよいかもしれない。
チェーホフの『犬を連れた奥さん』が恋愛小説かというと、それもまた微妙だ。明解さんの恋愛観はちょっと独自だが、それにしても《愛》の部分がよくわからない小説だからだ。
いやいやいや、この定義で例示が「恋愛結婚」って、それはないでしょう。
いずれせよ、『犬を連れた奥さん』の二人、グーロフとアンナは、ちょっと明解さん状態に陥ってはいるけれど、二人の間の関係は《恋》ではあるけれど《愛》なのかどうかはやっぱりわからない。なぜかというと、この小説、肝心のアンナの気持ちがわざとのように書かれていないのだ。
読書会は面白かった。
まず主人公(男性側)のグーロフがいつ恋におちたのか。第一節ではグーロフは中年で、これまで数々の恋のアバンチュールを重ねてきたような男として描かれており、それが徐々にのっぴきならない恋の状態(──は盲目)になっていくのだが、そのターニング・ポイントはどこかという点だ。
私は第二節ですでに「この男、すでに恋におちているのでは?」と思って読んでいたのだが、別の人は、第一節の最後、彼女の様子を一人で思い返している段階で、「既に恋におちている」と話されていた。確かにそうかもしれない。
物理学者のリチャード・ファインマンは「子どもの頃、自分が眠りに落ちる瞬間を知りたくていろいろ試してみた」という主旨のことを書いていたと思うのだけど、人が恋におちる瞬間も眠りにおちる瞬間と同じように曖昧なのかもしれない。もちろん、「絶対あのとき!」と明確な人がいることは否定しない。ただ、少なくともこの小説では、そこのところが少し曖昧で、そこが面白い部分なのかもしれない。
短編なので30分程度で読める短い話なのだけれど、小説は後半、かなり劇的にのっぴきならない感じになっていく。イメージでいうと、まず彼の方が仙台まで新幹線で突然彼女に逢いに行き、その後、彼女の方が東京まで会いに来るという展開だ。これはかなりのっぴきならない。
けれど、なぜそんなにものっぴきならない感じになってしまったのかも、なんだか曖昧で、私には上手く捉えられなかった。別の人は「著者はわざと男性目線でだけ書いていて女性側の気持ちを書いていない。これは男性の願望を描いた妄想小説なんです」というようなことを言っていた。
確かにそうかもしれない。ちょっとしたアバンチュールのつもりが、二人同時に恋に落ち、彼女は健気で儚げで、一旦は終わったと思ったのに男の方が彼女にわざわざ逢いに行くと、その後は彼女も逢いに来るようになる。二人のこの先はわからないが、彼はこれを「初めての恋だ」と感じている。
うん、確かに、ちょっと意地悪な読み方だけれど、妄想小説と思って読めないことはないし、それはそれで面白い。もっと極端に更に意地悪に読めば、アンナはリリちゃんかもしれないし。だって避暑地に一人で来て、わざわざ犬を連れて歩いている奥さんなのだ。そう考えると、たとえば二人が出合った街で彼女は柄付眼鏡も実は絶妙な小道具で、彼女はこれを避暑地で一旦無くすが、彼がわざわざ逢いにいったときにも彼女は持っている。いや、それは妄想の上書きか? でも、宮沢りえあたりが舞台で小道具として使うには絶妙な感じじゃないか。それにアンナはとても受動的に描かれているが、受動的にみせているのは隠された能動性という超意地悪にも思えてくる。
いずれにせよ、妄想小説かどうかはさておき、恋におちるというのは不思議なことだ。三遊亭圓朝が書いた『牡丹灯籠』という話が好きなのだけど、この話の中で、浪人の萩原新三郎は、ふとしたことから旗本飯島平左衛門の娘、お露と知り合い、お互いに一目惚れして恋におちる。それはもう本当に一瞬のことだ。圓朝の『牡丹灯籠』では二人が恋におちるのは、因果は巡る糸車、当人たちも知らない過去のさまざまな経緯がきっかけだという因縁話という設定なのだが、恋におちるとはそれほど端からみると不思議なものだ。
きっと当人たちにとっては、二人が出合ったのは《偶然》のようでいて《必然》なのだろう。だから、「この人じゃなきゃ」「この人だから」と思うのだろう。
そう考えると《恋》はひとつの様相で、誰かと何かのきっかけで知り合いになったり、友だちになったり、場合によっては結婚したりするのも、《偶然》であり《必然》なのかとも思えてくる。
その意味で、このチェーホフの『犬を連れた奥さん』は、何かの機微を曖昧にぼんやりと伝えてくれているのかもしれない。