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透明感のある作品

最近、悩んでいることがある。「透明感のある作品」という言葉の意味がわからないのだ。

音楽や絵画であればなんとなくわかる。でも文学作品について「透明感」とはどういう感じなのか。

ChatGPTに尋ねてみるとこんな答えが返ってきた。

 「透明感のある作品」という表現は、一般的には以下のような特徴を持つ作品を指します。
クリーンでクリアな表現: 混乱や曖昧さが少なく、明確でわかりやすい表現が使われていること。
純粋さや素直さ: 無駄がなく、シンプルで真っ直ぐな表現。作為的でない自然な感じがすること。
明るさや軽やかさ: 暗く重い雰囲気よりも、明るく軽快な印象を与えること。
深い感情や意味: 見た目のシンプルさの中に深い感情や意味が込められていること。
 例えば、文学作品や音楽、美術作品などにおいて、読者や聴衆が作品を鑑賞したときに、その内容や表現が透明であると感じられる場合があります。透明感のある作品は、見た目や音の美しさだけでなく、その中にあるメッセージや感情が直感的に伝わりやすいとされています。

「明るさや軽やかさ」はわかる。でもそれはたとえば「ポップ」な感じだったらどうなのか? 「ポップ」であることと「透明感」は、それぞれ独立事象ではないのか。

「純粋さや素直さ」はどうだろう。純粋であることや素直であることは、技巧的であることとは対極的だし、技巧的な凝った文章というのは確かに重くなりがちだ。屈折していないという特徴もあるかもしれない。しかし、だからといって、純粋さや素直さが「透明」かというと、本当にそうだろうかと思ってしまう。混じりけがない? そもそも文学作品で混じりけがないとはどういうことだ?

「クリーンでクリアな表現」は、透明を言い換えただけだから、当てはまりそうだが、透明でない物言いをすれば、クリーンであること、クリアであることは、明晰であることを含んでいるようにも思える。一方で、明晰であると多義的であることは、かならずしも矛盾しない。明晰にダブルミーニングを重ねることは可能なのだ。一方で、曖昧な表現、ふわふわと綿菓子のようにつかみどころがないとしても、人によってはそれを「色がないから透明」と感じるかもしれない。

「深い感情や意味」は、きっと上記の条件を満たしたうえでなのだろう。そうでなければ「深い感情や意味」を持つことと「透明」であることを意味してしまう。それでは意味がわからない。

ということは、ChatGPTが示した4つの条件は、アンド条件として満たされたとき、それを「透明」というのだろうか。明確でわかりやすい表現が使われ、作為的でない自然な感じがし、明るく軽快な印象で、シンプルさの中に深い感情や意味が込められていること。なるほど、少し「透明」かもしれない。

でもなぁ、と思う。たとえば下記の歌詞は透明だろうか。

おんまはみんな ぱっぱかはしる
どうしてなのか だれもしらない
だけどおんまみんな ぱっぱかはしる

童謡「おんまはみんな」

童謡が卑怯だといういうならこれはどうだろう。

しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかるみて、
麦は遠きにながれたり、
しづかにきしれ四輪馬車。
光る魚鳥ぎょちょうの天景を、
また窓青き建築を、
しづかにきしれ四輪馬車。

萩原朔太郎「天景」

確かに「天景」は、静かなそれでいて深い感情を呼び起こしてくれる。でも、イ音を重ねた1行目とア音オ音を重ねる2行目の対比は、かなり技巧的で作為的だ。そしてそこが美しい。母音の変化自体の面白さと風景の抽象度が「天景」の持ち味なのだ。

では、これは?

鹿は角に麻縄をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その青い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた。
そとでは桜の花が散り、山の方から、ひとすぢそれを自転車がしいていつた。脊中を見せて、少女は藪を眺めてゐた。羽織の肩に、黒いリボンをとめて。

三好達治『測量船』「村」

ChatGPTに尋ねたのが失敗だったのだろうか。いや、そうではない。ChatGPT君はそれなりの常識的な基準を示している。

納得できていないのは私の方なのだ。「天景」や「村」には、「透明な感覚」が含まれているかもしれないと思いつつ、それを「透明感」という言葉の切り取りですませてしまうことに納得できない。あるいは「透明感がある」と世の中ではされている作品群(がきっとあるのだろう)が、「天景」や「村」に匹敵する基準を満たしているのかどうか疑問なのかもしれない。

ああ、そうか。「透明感」というのは「甘い」とか「苦い」とかいう感覚的な言葉なのか。「甘い」とはどういうことなのか、甘さの度合いが人には伝えられないのと同様に、「透明感」は私基準でしかいうことができないのか。

だとすれば簡単だ。私スケールで透明感を10段階とし、「私はこの作品を私スケールで透明感8と認定します」と言えばいいのか。世間でいう「透明感」という表現を無効化し、自分基準にすれば迷わなくなる。

にしても、本当に「透明感」という基準は、文学作品の評価に必要な基準なのかどうか、私には依然、明らかではない。

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