透明感のある作品
最近、悩んでいることがある。「透明感のある作品」という言葉の意味がわからないのだ。
音楽や絵画であればなんとなくわかる。でも文学作品について「透明感」とはどういう感じなのか。
ChatGPTに尋ねてみるとこんな答えが返ってきた。
「明るさや軽やかさ」はわかる。でもそれはたとえば「ポップ」な感じだったらどうなのか? 「ポップ」であることと「透明感」は、それぞれ独立事象ではないのか。
「純粋さや素直さ」はどうだろう。純粋であることや素直であることは、技巧的であることとは対極的だし、技巧的な凝った文章というのは確かに重くなりがちだ。屈折していないという特徴もあるかもしれない。しかし、だからといって、純粋さや素直さが「透明」かというと、本当にそうだろうかと思ってしまう。混じりけがない? そもそも文学作品で混じりけがないとはどういうことだ?
「クリーンでクリアな表現」は、透明を言い換えただけだから、当てはまりそうだが、透明でない物言いをすれば、クリーンであること、クリアであることは、明晰であることを含んでいるようにも思える。一方で、明晰であると多義的であることは、かならずしも矛盾しない。明晰にダブルミーニングを重ねることは可能なのだ。一方で、曖昧な表現、ふわふわと綿菓子のようにつかみどころがないとしても、人によってはそれを「色がないから透明」と感じるかもしれない。
「深い感情や意味」は、きっと上記の条件を満たしたうえでなのだろう。そうでなければ「深い感情や意味」を持つことと「透明」であることを意味してしまう。それでは意味がわからない。
ということは、ChatGPTが示した4つの条件は、アンド条件として満たされたとき、それを「透明」というのだろうか。明確でわかりやすい表現が使われ、作為的でない自然な感じがし、明るく軽快な印象で、シンプルさの中に深い感情や意味が込められていること。なるほど、少し「透明」かもしれない。
でもなぁ、と思う。たとえば下記の歌詞は透明だろうか。
童謡が卑怯だといういうならこれはどうだろう。
確かに「天景」は、静かなそれでいて深い感情を呼び起こしてくれる。でも、イ音を重ねた1行目とア音オ音を重ねる2行目の対比は、かなり技巧的で作為的だ。そしてそこが美しい。母音の変化自体の面白さと風景の抽象度が「天景」の持ち味なのだ。
では、これは?
ChatGPTに尋ねたのが失敗だったのだろうか。いや、そうではない。ChatGPT君はそれなりの常識的な基準を示している。
納得できていないのは私の方なのだ。「天景」や「村」には、「透明な感覚」が含まれているかもしれないと思いつつ、それを「透明感」という言葉の切り取りですませてしまうことに納得できない。あるいは「透明感がある」と世の中ではされている作品群(がきっとあるのだろう)が、「天景」や「村」に匹敵する基準を満たしているのかどうか疑問なのかもしれない。
ああ、そうか。「透明感」というのは「甘い」とか「苦い」とかいう感覚的な言葉なのか。「甘い」とはどういうことなのか、甘さの度合いが人には伝えられないのと同様に、「透明感」は私基準でしかいうことができないのか。
だとすれば簡単だ。私スケールで透明感を10段階とし、「私はこの作品を私スケールで透明感8と認定します」と言えばいいのか。世間でいう「透明感」という表現を無効化し、自分基準にすれば迷わなくなる。
にしても、本当に「透明感」という基準は、文学作品の評価に必要な基準なのかどうか、私には依然、明らかではない。
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