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小さな風景を生きるための勇気:夏川草介『スピノザの診察室』

そりゃぁ、生きて生活をしていれば嫌なことはある。面白くないことや「なんだよ」とムッとしてしまうこともある。そもそも考え方の基本が違っている相手に対して、「許せん」と思わずつぶやきたくもなる。私たちはそうやって生きている。

そんなとき哲学は私たちを何か助けてくれるだろうか。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント。高校の倫理社会でなんとなく名前は知っていても、彼らはどこか遠くで難しい理屈を捏ねているだけなんじゃないか。そう思ってしまう。彼らが何を悩んでいたのか、何をしようとしていたのかは、私たちにはとてもわかりにくい。ましてやスピノザ。100人に聞けばきっと80人くらいは「誰それ?」というと私は思う。

『暇と退屈の倫理学』を書いた國分功一郎氏は、たぶんスピノザが好きな例外的な3σ(約99.7%)に入らない人口比率0.3%の人なんじゃないか。だって『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』なんていう、新書なのにとても厚い本を書いているし。

ただ、『はじめてのスピノザ』は読んでみたけれど、國分さんがスピノザが好きで、スピノザのことを一生懸命に繰り返し考えていることだけが私にわかったことだ。すごく申し訳ない感じがする。

スピノザが書いた『エチカ』は持っている。ただ、國分さんは「最初から読むよりも、途中から読んだ方が入りやすいですよ」と言ってくれていたのに、馬鹿な私は頭から読み始めてしまった。そして10秒で玉砕した。これは比喩じゃない。10秒というのは少しだけ盛っているけれど数ページいかないうちに私は???で満たされたのは事実だ。だからそういう経験がしたいのならばオススメだけど、まぁ、普通はあまりしない。

なのにどうしたことだろう。いま猛烈にスピノザが読みたい。

もちろんそれは夏川草介の『スピノザの診察室』のせいだ。主人公の内科医マチ先生(哲郎)はちょっと変わってはいるけれど、「ああ、こんな人がいたらいいのに」と思える人だ。小説の中で描かれる京都の風景もいい。そのマチ先生の机の上にスピノザの著書がおいてあるのだ。

マチ先生は静かな人だ。小さな病院の同僚の秋鹿医師(アフロヘアーでゲームばかりやっているように見える)は「マチ先生はやはり僕にとってのトランキライザーですよ。お話をしているととても心が落ち着きます」としばしば言う。

もちろんマチ先生も人だから、別に何も感じていないとか、考えていない訳ではない。大学病院の先輩、花垣准教授は「野心はなくても矜持はある。そうだろ?」という。もちろんその通りなのだけれど、マチ先生が見つめる先にあるのは方法ではなく、行動の是非そのものを問いかけるところにある。そう言えるところが読んでいて心が洗われるように思える。汚れちまった悲しみにという言葉は今も私たちのためにある。

マチ先生の甥の龍之介が医師になりたいという希望を述べたときも、マチ先生は龍之介に望むのは、立派な医師になることより、立派な大人になってもらうことですよ」という。

立派な大人。私は自分の子どもにそんなことを言っただろうか。私たちは一生懸命にマネジメントの本を読み、効率化を心がけ、戦略・戦術といった軍事用語を日々の仕事に持ち込んで、できれば他者に勝ちたいと望んでいる。他者には自分自身も含まれる。そんな毎日を過ごしてきてしまった。

マチ先生は「これで良かったのか・・・」という問いかけをしない。しないようにしている。

「頑張らなくてもよい」「急がなくてもいい」 そんな言葉をマチ先生がいうとき、物語に登場する人たちも、読者である私たちも、「そうか、それもありか」と思う。そんな気持ち、忘れていたな。。。とも。

マチ先生はいつもと変わらぬ日常を、京都の街を、自転車でゆっくりと回診しながら過ごしている。

人の幸せはどこから来るのか。それが私にとっての最大の関心事でね。
病気が治ることが幸福だという考え方では、どうしても行き詰まることがある。つまり病気が治らない人はみんな不幸のままなのかとね。治らない病気の人や、余命が限られている人が、幸せに過ごすことはできないのかと。
たとえ病が治らなくても、仮に残された時間が短くても、人は幸せに過ごすことができる。できるはずだ、というのが私なりの哲学でね。そのために自分ができることは何かと、私はずっと考え続けているんだ

第二話「五山」

マチ先生の哲学について、先輩の花垣准教授はこんな風に回想する。

いつかあいつが言っていたことだ。世界には、慈悲も自愛も存在しない。努力も忍耐も役に立たない。無数の歯車ががっちり組み合って、延々と果てしなく回り続けているような冷たい空間が拡がっているだけだと。あいつは
周りが思っているよりは、ずいぶんな厭世家だよ。

第三話「境界線」

それをマチ先生は青い空を見上げながら思う。

最先端の医療の世界は、誰も踏み込んでいない未知の領域を切り開いていく驚きと発見に溢れた未知だ。顧みて、今哲朗が向き合っている世界には、発見も驚きもないかと言えば、そんなことはない。ここにも、最先端と同じくらい、多くの医療者が踏み込んでいない未知の領域があるのだと思う。むしろ医療の二字にとどまらない広大で果てのな人間の領域だ。

第三話「境界線」

そして甥の龍之介と京都の林を散策しながらこういう。

人間はとても無力な生き物で、大きなこの世界の流れは最初から決まっていて、人間の意志では何も変えられないと言った思想家もいたんだ。そうやって突き詰めていけば、人間が自分の意志でできることなんて、ほとんどないことに気が付く。つまり、人間は世界という決められた枠組みの中で、ただ流木のように流されていく無力な存在というわけだ。こんな希望のない宿命論みたいなものを提示しながら、スピノザの面白いところは、人間の努力というものを肯定した点にある。すべてが決まっているのなら、努力なんて意味がないはずなのに、彼は言うんだ。"だからこそ"努力が必要だと。

第四部「秋」

人は無力な存在だから、互いに手を取り合わないと、たちまち無慈悲な世界に飲み込まれてしまう。手を取り合っても、世界を変えられるわけではないけれど、少しだけ景色は変わる。真っ暗な闇の中につかの間、小さな明かりがともるんだ。その明かりは、きっと同じように暗闇で震えている誰かを勇気づけてくれる。そんな風にして生み出されたささやかな勇気と安心のことを、人は『幸せ』と呼ぶんじゃないだろうか。

第四部「秋」

私もそれを信じたいと思う。そしてなんだかとてもスピノザが読みたいと、人生で初めて思った。

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