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日記・雑感

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どうでもいい日々の雑感
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#読書記録

ソクラテスよ

中村雄二郎「臨床の知とは何か」を読み終えたときのこと、読み終えた本を横においてメモを書いていたら「何読んでたの?」とドロシーに聞かれた。 「経験とはなにかとかの本」と答えるとドロシーはかく語った。 揚句に歌いだした。ドロシーは歌がうまい。 そして日本の景気回復の現状についてとうとうと語りはじめた。滔々とは勢いよくとどまるところを知らないことなどをあらわす。 中村雄二郎「臨床の知とは何か」だが、臨床という言葉が使われているが、著者のいう「臨床の知」は、広義として医療に限

日本語を振り返る時間:杉本苑子『秋と冬の歌』

いつ買った本だろう。奥付を見ると昭和60年12月20日第一刷発行とある。1985年、まだ学生だったときだ。 秋立つ日という章には、中村草田男の俳句がさりげなく置かれている。秋の気配を感じるのではなく、秋立つ日にふさわしい《やや寒》という季語。無髯の耶蘇が掛けられた壁を《やや寒》という一言で言い尽くす感性。 この本を買った時、自分が何を感じたか、なぜこの本を買ったのか、もう思い出せない。ずっと本棚の奥に置かれていたこの本は、捨てられもせず、だからといって繰り返し読まれたわけ

富士日記

日記や手紙を読むのは嫌いじゃない。小説やノンフィクションにはない楽しみがある。その中でも武田百合子の「富士日記」が好きだ。 日記とは本来、本人以外にはどうでもよいものだ。どうでもよいことがら、どうでもよい思い、どうでもよい記憶。でもそれがその人なのだ。 どうでもよい日常の大切さを取り戻そう。

モンダスに住む:アーシュラ・K・ル=グィン『夜の言葉』

伝えることが出来ないこともあるんだなと思う。そう思うようになったのは、もうずいぶんと前のことだ。 ル=グウィンは、ロード・ダンセイニの作品中の《内陸》(イナー・ランド)を「わたしの故郷」と呼ぶ。ル=グウィンと私とは、時代も環境も世界観も異なるけれど、もしかしたら同郷かもしれない。 ル=グウィンの「夜の言葉」の「モンダスに住む」にこんな一節がある。 「見つめる眼」ではトールキンを引用しながらこんなことを言っている。 もっとも、ル=グウィンは私と違って、退却系ではまったく

『知的生産の技術』の思い出

本棚を探してみたら、『知的生産の技術』が過酷な断捨離を耐えて生き残っていた。高木貞治の『解析概論』すら断捨離されてしまったことを考えると大したことだ。 奥付をみると初版1967年7月、第23刷 1976年8月10日とある。1976年、中学3年生の頃だ。 『知的生産の技術』と出会ったきっかけは中学の国語の授業だった。当時の私のクラスの国語を担当していた家崎さんは少し変わった人で、学校の夏休みにインドに出かけて行き、帰国後チフスだかコレラだかに罹患していることが判明、夏休みが

きっかけ

私は小学校の3年生ぐらいまで本を読むことがない子どもだった。仲のよかったN君はすでに当時ドリトル先生の全巻を読んでいたりしたけれど、私はそれをどうとも思っていなかったし、すごいなとも思っていなかった。単純に本を読むことに興味がなかった。 実際はそもそも本を読むということが上手くできなかったのだと思う。本を読むということがどういうことなのかもわかっていなかった。運動も得意ではなかったし、学校もよく休んでいた。 本を読むようになったのは母が「魔ほうのボール」という本を買ってき

答えのない質問

レナード・バーンスタインの「答えのない質問」。副題は「1973年ハーヴァード大学詩学講座」。高校生の頃に本の方を古本屋で買った。それなりの値段がしたような気がする。少し背伸びをしながらわくわくして読んだ。 目次は、1.音楽的音韻論、2.音楽的統語論、3.音楽的意味論、4.曖昧さの喜びと危険、5.20世紀の危機、6.大地の詩と続く。 第3章の音楽的意味論 IIでは、「ベートーヴェンの<<田園>>交響曲を、外部的で非音楽的なあらゆる隠喩から分離させて、純粋音楽としてきくことが

近所のブックオフで

近所のブックオフで買った茨木のり子「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)の値段は100円だった。 冒頭の「はじめに」で茨木のり子はこう書いている。 美しいことばだな。こんな言葉が書けたらなと思う。それが100円。平和な時代をかみしめる。 最初の詩は谷川俊太郎の「かなしみ」(詩集『二十億光年の孤独』)。 少し進むと谷川俊太郎が40代のときに書いたという「芝生」(詩集『夜中に台所でぼくはきみにはなしかけたかった』)。 そして吉野弘「I was born」が続く(詩集『

ミームとは複製されていく習慣や文化的な情報

お願いだから、納豆には砂糖を入れないでほしい。『砂糖の入った納豆っておいしいよね』って、子供に繰り返し同意を求めないでほしい。お正月に、おじいちゃん、おばーちゃん、おばさん、カミさん、みんなで楽しそうに砂糖入り納豆を食べないでほしい。 初めてドーキンスのミームの話を聞いたとき、『げ、トンデモ?』と思ったものだ。いまでも「何でもミーム」みたいに言われると、ちょっと疑問を感じる。 ただ身近に、『お煎餅を吸いながら食べるという家族』や『納豆に砂糖を入れるという家族』の強い世代間

小松左京の時代

「日本沈没」(復興五輪)、「復活の日」(新型コロナ)、「首都消失」(ロックダウン)か。まるで小松左京3部作だ。 神戸の震災のとき、神戸にいた。そしてそのとき改めて「日本沈没」を読み直した。小説に描かれた都市型の直下型地震の被害の記述は神戸のそれに恐ろしいほど比例しているようだった。 今回の新型コロナウィルスの一連の時間の中で「復活の日」を読み直した。ウィルスによって疲れ果てた医師の独白、人々が死に絶えてしまった春の風景。最初の長編だから「日本沈没」に比べると少し記述が青臭