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俳諧にみる江戸期の「和菓子の日」

【スキ御礼】鑑賞*「花ふぶき」菓銘に父の三回忌

全国和菓子協会が6月16日を「和菓子の日」と制定した。
なぜこの日なのかというのは、「虎屋」さんが紹介されています。

かつて、6月16日には、菓子を食べ厄除けと招福を願う嘉祥(かじょう)(嘉定)という行事がありました。江戸時代には宮中や幕府でも重要な儀式となり、特に幕府では、江戸城の大広間に2万個を超える菓子を並べ、将軍が大名・旗本へ下賜(かし)しました。

和菓子の日 | 和菓子暦 | 株式会社 虎屋 

歳時記には「嘉定喰かじょうぐい」という季語があり、「宮中から民間まで陰暦六月十六日に行われた行事で、その日十六個の菓子や餅などを神に供えてたべると疫病を払うと考えられた。」(『日本大歳時記』講談社)とある。

嘉定喰が「宮中から民間まで」行われていたことは、江戸期の俳句からも読み取れる。歳時記に挙げられた江戸期の三句をみると、公家、幕府、民間それぞれの嘉定が詠まれていることに気づく。

月もこよひ食したまふや嘉定喰 貞徳

作者の松永貞徳は、江戸前期の俳人(1654年没)。父・永種の母は冷泉為孝の娘・妙忍、貞徳の母は藤原惺窩の姉(冷泉為純の娘)であることから、貞徳は下冷泉家と深い関係にあったという。
 貞徳も公家の年中行事に理解があり、嘉定喰もまた宮中の行事として承知していたのだろう。
 句は、月もまた嘉定喰いをなさることよ、という。その裏には、嘉定喰いは公家のするものであるのに、という意識が見え隠れする。
月に対しても「たまふ」などという位の高い人への尊敬の言葉を用いることで俳諧味を出しており、公家の文化が前提にあるように思われる。

十六騎究竟一くっきょういちや嘉定喰  蓼太

作者の大島蓼太は江戸中期の俳人(1787年没)。信濃の国の生まれだが、幼時に一家で江戸に出て、幕府の御用縫物師を務めたという。
蓼太は、幕府との取引があることで、幕府の年中行事を知りうる環境にあり、幕府の行う嘉定喰いもまた見聞があったのではないか。
 句の究竟一とは、極めてすぐれているという意味。
 平治物語にも「主従三騎究竟くっきょう逸物いちもつどもにて」というくだりがある。主人と家来の三騎の馬は非常に優れていて、という意味。
 句ではこれを踏まえて、(平治物語では優れた馬は三騎であったのに)お菓子を配る嘉定喰にいたっては優れた馬が十六騎も参上していることよ、という諧謔なのかもしれない。十六騎という数は、もちろん十六日を意識してのことであろう。

子のぶんを母いただくや嘉定喰ひ  一茶

作者の小林一茶は江戸後期の俳人(1828年没)で、信濃の国の生まれで有力な農民の家系である。15歳で江戸に奉公に出ている。51歳になって故郷に帰るが、それまでの間、生活も苦しかったと思われ、生活において公家や幕府との関係があったとは考えにくい。
 句は、神に供えた菓子や餅を下げて母が子の分を食べてしまったということなのだろうか。公家の家系の貞徳や幕府と取引のあった蓼太の句とは違い、家庭的でつつましくもほほえましい景である。民間の一般家庭でも神に菓子や餅を供える風習があったことが伺える。

嘉定は明治時代に廃れてしまったとのことで、歳時記の例句も江戸期のものだけで明治以降の句の掲載がない。
だが、現在でも行われている嘉定は、ある。

                                                   (つづく)

(岡田 耕)

☆写真は、 日枝神社山王祭 野点御茶席でいただいたお菓子。紅白のお干菓子で、日枝神社の社紋である二葉葵が描かれている。

*参考文献(引用のほか)

松永貞徳 - Wikipedia
大島蓼太 - Wikipedia
小林一茶 - Wikipedia



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