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書く勇気。たとえ面白くなくても書いたほうがずっといい

文章を書いて発信したいけど書けない。みたいな話はよく聞きます。かく言う僕もその一人です。

ですが、ふと「じゃあなんで書けないのか?」というところを自分なりに考えてみました。その理由は人それぞれだと思いますが、僕の場合は「書くからには面白いものを書かないといけないと思っているから」という理由にたどり着きました。

でもこれって、我ながらすごく勿体ないことですよね。という話を書いてみたいと思います。

面白くないものは世に出してはいけないという呪縛

本題に入る前に、そもそも僕がなぜ面白いものを書かなければならないという呪縛にかかったのか?という話をします。

僕は今出版社で電子書籍の編集をしています。書籍編集者の仕事とは、簡単に言えば自分以外の他者が書く文章をより面白い形で世に送り出すお手伝いをすることです。

その一方で、しないことを判断することも書籍編集者にとっては重要です。具体的に言うと、この「企画」や「著者」では世に出さないほうがいい、という判断を日々しています。もちろんそこには色んな理由がありますが、強引かつ簡単にやらない理由を言えば、それは「面白くないから」です。

しかも、これは制作以前の企画の時点に限りません。実際には企画が通った後、原稿を進めてはみたものの、到底読者からお金をいただいて読んでいただくレベルに達せず、泣く泣く出版を取りやめることもあります。このケースは編集者としても複雑で、企画は面白いのに原稿は面白くない、みたいなねじれの状態にあります。

要するに何が言いたいかというと、書籍編集者にとっては世に出した企画以上に、世に出さなかった(出せなかった)企画のほうがはるかに多いということです。

こういう理屈で、僕はやる以上は面白くないといけない、という意識が強くなっていたのだと思います。

記事を書いても負債はない。だったら書くほうがいい

ではようやく本題です。前項では敢えて「本を出版する」という文脈で語ってきましたが、それを、冒頭でも触れたとおり「記事を書く」という文脈に置き換えて考えてみます。

至極当然ですが、記事を書いて外れた(面白くなかった)からといって、本のように誰かが負債を抱えるわけではありません。本の場合は1冊作るのに膨大な費用がかかり、関わる人間も多くなります。そうなると必然的に、ビジネスの論理が働きます。そのビジネスの論理こそが、「面白いかどうか」なのです。

だからこそ、個人ブログならたとえ記事が面白くなくたって発表をしたほうがいいと思います。抱える負債もありませんし、もしかしたらその記事を面白いと思ってくれる人がたった一人でもいるかもしれません。

面白いかどうかは書いた本人には意外とわからない

そもそも、面白いとはなんでしょうか。

再度出版を例にすると、出版社は日々企画の面白さを判断し、取捨選択をしています。ですが、出版社が「面白い」と思ったものでさえ、全人類にとって「面白い」ということはありえません。経験値を蓄積し、頭の良い人たちが知恵を絞った本ですら売れないことも多々あるわけです。

つまり、書いた原稿が面白いかどうかを判断するのは、プロですら非常に難しいのです。そしてそれは、書いた本人も同じだと思います。

これはすごい記事が書けたぞ!と思ってドキドキしながら公開してみると、思ったより反応がなかった……。こういったことは、日常的に自分で記事を書いて発信している人なら必ず経験があると思います。でもそれは全くもって仕方のないことだと思うのです。

かくいう僕も、実はこんなテーマで書いたこの記事ですらも、途中で自分でも言いたいことがわからなくなって公開するのを止めようかと本気で考えました。

もし今までと同じ思考だったならば、恐らく途中まで書いて下書きに眠らせておいて、日の目を見ることはなかったと思います。

この記事が面白いかどうか自分にはわかりませんが、たとえ一人でも、書くことで悩む人に届いたとしたら嬉しい限りです。

※この記事はnoteにて2020年10月7日に掲載した記事を再掲載したものです。

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