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父、映画、僕

 その日、僕は夜中にふと目を覚ました。隣に母が、またその隣には妹が寝ていて、まだ自分の部屋がなかった時なので、おそらく小学生から中学生になるかならないかくらいの時期だったと思う。僕は枕元に置いておいたメガネをかけて、飛石を渡るように、上手に足を跨いで襖へと向かった。なんとなく水でも飲んでこようかと、そんな気分だった。襖に手をかけると、リビングの光がこちらに漏れ出て、僕の肩を通り、妹の顔を照らした。起こさないようにさっと襖を閉めてリビングに出ると、テレビ画面に向かう父の後ろ姿が見えた。大きな背中は丸く、眼鏡のレンズは僕のよりもずっと厚い。手元にはクラッカーと赤ワインの入ったグラス、それとテレビのリモコン。父のリモコンだ。

 父は一切テレビのリモコンを譲らなかった。僕がどれだけ楽しそうにお腹を抱えて笑っていても、ほとんど見るのを義務付けられているほど学校で大人気なバラエティー番組を下品の一言で切り捨て、容赦なくチャンネルを変えた。好き嫌いがはっきりしていて、少しでも自分の好みに合わなければ受け付けない。例えば、テレビならNHK、音楽はロック。僕が好んだアニメや漫画はストーリーが単調で絵が汚いからと言って、もっとディープなもの(例えばエヴァンゲリオンや攻殻機動隊)を薦められた。今振り返れば、父が僕に与えたのはどれもクラシックになり得るセンスのいいものだと分かるけれど、当時、小学生だった僕にはなにがなんだかちんぷんかんぷんで、決して夢中になるようなことはなかった。もっと僕はその年齢らしい、ポップで分かりやすいものを楽しんでいたかったのに、そういった僕の子どもらしさに父は決して手加減をしなかった。

 ただ、映画においては、父はある程度譲歩してくれていたように思える。父はもっぱらわかりやすいアクション映画ばかり見せてくれた。敵と味方がはっきりとしていて、決まってクライマックスには爆撃音と共に主人公の運命を決するようなバトルシーンがあった。スパイ映画やスーパーヒーロー映画、B級から名作まで話の大筋はそんな感じだった。もちろんアクションとは別に、主人公の心情の機微を丁寧に描写する部分や、こちらが敵に感情移入したくなるようなつらい過去を描く部分などあったが、僕はそういったことには全く関心を持っていなかったし、おそらく理解できていなかった。それよりもとにかく銃撃戦や爆発、スーパーメカに興奮していたのだ。映画を見た夜は主人公を自分に置き換えて、頭の中でもう一度映画をやり直して夜更かしをしたし、授業中には学校が突然ハイジャックされるというシナリオの妄想ばかりしていた。父はそんな風に僕が映画に夢中になっているのをとても喜んでいたようだった。また、僕はそれが嬉しかった。映画を見る時、父は兄弟の中で一番初めに声をかけてくれたし、隣で一つの画面に向かう時、いつも遠くに感じていた父が背中を合わせて戦う「相棒」になった。父も同じように感じてくれているような気さえした。そんな瞬間は映画を見ているときだけだった。

 父がアクション映画ばかり見せていたのは、父がその手の映画しか見なかったからというわけではない。父はアクション映画とは真逆の、会話ばかりの映画やもしくはセリフが極端に少ないような静かな映画にも同じくらいの熱量を持っていたのを、僕は父のコレクションしているDVDや映画館に行ったときに手に取るチラシなどからなんとなく気づいていた。父は確実に僕が楽しめる映画を選んで見せてくれていたのだ。なぜその気遣いが他のエンタメでは発揮されなかったのかは今でも謎なのだけれど、映画においては僕に見せるものと自分のためにとっておくものを明確に分けていたように思える。

 だからその時僕は思わず息を潜めてしまったのだ。なんだか見てはいけないものを見てしまった気がして。父に気づかれないように後ろから大きな背中越しに映画を見た。ピンクのドレスを着たブロンドの綺麗な女性と髭の生えた男性がガラスを挟んで会話をするシーンが続く。状況は全くつかめなかったけれど、何やら大事な話をしていることは分かった。すると、父は静かに眼鏡を取って目に手をやった。まるで他の観客がいるかのように、音を立てないよう、丁寧に、慎重に。僕はその様子を注意深く眺め、本来の大きさを取り戻した目から涙が流れるのを想像した。映画の中では背中を合わせていたはずの父を、今度は遠くの空に浮かぶ飛行機の行方を追いかけるように、じっと見つめていた。しばらくして僕は、憧れと出所の不確かな寂しさを胸に、静かに布団に戻った。水を飲みに来たことをすっかり忘れて。

 それから思春期が来て、父を遠ざけてしまうようになったが、あの時の後ろ姿が細い糸で僕と父を繋いでくれているような気がする。あれからどんどんと目が悪くなり、眼鏡のレンズは随分と厚みを増したけれど、まだあの映画の名前はわからないままだ。

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