見出し画像

「サンタクロースは、いるかいないか」じゃなくて「『いるかいないか』が、サンタクロース」である

※この文章は2017年12月24日に某所へ投稿されたものの再掲です

・時事ネタ

子どもに「サンタクロースはいるの?」と訊かれたら、「逆だね。いるかどうかが『サンタクロース』なんだよ」と答える準備ができているのだけれど、そんな機会は訪れず今年も暮れていくようなので、誰にも尋ねられていないことを、唐突にしゃべりだすクリスマスイブである。

その前に、子ども達が、「いる」かもしれないサンタクロースが、自分たちの家に来ること自体を(あるいは来ることを検討すること自体を)信じて疑わないのはどうしてなのか。クリスマスだからといって、それがプレゼントだからといって、届け主がサンタクロースであるという可能性はあっても保証はない。

そこで子どもたちには「サンタクロースがいるの?」という質問の代わりに、「クリスマスにプレゼントがもらえることは決定事項なの?(これは非常に重要なはずだ)」「そしてそれはサンタクロースという人の所業なの?」という2つの質問に分けたのち、「どうしてその日は外部の人間が、深夜にプレゼントをくれる名目で自宅、ましてや自分の寝ている部屋に侵入してくることを許可するの?逆に別な日はどうしてダメなの?別な日のサンタは?」という質問につなげてみてはどうか、と言いたい気持ちになるけれど、これをやると親御さんに迷惑がかかりかねない。自分は大人なので、そういう大人げない提案はしない。

まず、当初の質問にある「いる」というのはどの程度の「いる」なのか?「いる」にも色々あって、「目の前にいるとしか思えない」のも「いる」だし、「世間にいると信じられている」のだって「いる」である。目の前にいるとしか思えないのに、周りの誰もが「いない」という場合もあれば、逆に自分以外の人が全員「いる」と指差しているのに、それは何もない空間である場合もある。

周りが「いる」といっていれば「いる」なのであれば、サンタクロースはいるということになる。ただし、この場合の「周り」というのはその質問に答えてくれる周りの優しい大人たちに限られている。他の人間たち、例えばスレた高校生とかは「いねーじゃん親だよ」と言ったり、人生に疲れた人は「いるならどうしてうちに来ないの」と(後で)涙を流すのかもしれない。

人によって「いる」かどうかが変わってしまうものは、科学的・客観的と呼ばれる領域においては「いない」ことになる。その領域では、そういうものは「いない」ことにしないと、不都合なことが多いので、そういうことになっている(もっとも更に特定の分野においては、その限りではないらしいけれど)。

・土台が揺らぐ

しかし子どもたちにとって、場合によっては大人にだって、科学的・客観的な領域に留まらなくてはいけない道理はない。いると言われて、いると思えば、それはいるのだ。そう考えれば「いると言われて、いると思えばいる」ものたちというのは、何もサンタクロースに限った話ではない。

先述の解答「いるかどうかが『サンタクロース』なんだよ」の『サンタクロース』を、そういう別なものに置き換えてみると、もう少しわかりやすいかもしれない。「いるかどうかが『ヴァーチャルアイドル』なんだよ」「いるかどうかが『神さま』なんだよ」「いるかどうかが『妖怪』なんだよ」「いるかどうかが『他者』なんだよ」

存在すること、それを認めるということ、それら自体が曖昧模糊で、無限に変化し無限に増殖したまま統合されている。それは存在と認識の基盤である意識と無意識が曖昧で無限であり、その礎である肉体と世界は、さらに(みたいな言い方しかできないけど)曖昧で無限であるからだ。言葉や記号を支える大きな土台そのものを、言葉や記号が表現し切れるのであれば、それは土台にはなり得ない。

・危ないところはちゃんと避ける

そう考えると、もはや解答の括弧欄に入るものは何もなくても良くなり、ぽっかり空いた深淵が、やがて解答そのものを侵食し始める。そこで「サンタクロースはいるの?」と訊かれれば、その解答は「そう!そうなんだよ!『いるかいないか』なんだよ!」ということになるが、これではコミュニケーションがおかしくなってしまうので、先ほどとは別の意味で大人げない。

その中身そのものでなくても、「穴」を塞ぐことができるものを「蓋」という。子どもの将来のためにも、また解答する自分の社会的な立場のためにも、ここでは何らかの「蓋」を使って、落ちる心配をせず、しかしそこに「穴」があるのだということを伝えたいところである。

その点、禅問答は上手いもので、「いると思えばいる。いないと思えばいない」と言えば一つの正解なのだけど、それでは子どもの納得を得られないと、経験上思う。その解答ではなんというか、くすぐり足りない。

・深刻な告白

そこでこういうのはどうだろう。クリスマスが近づいた頃、親から子どもを呼び出して、こう打ち明ける「お父さんな(お母さんでもいいですね)、実は、もしかしたら、お前のサンタクロースかもしれないんだ・・・」

子どもは何らかの意味で動揺するだろう。さらに続けて言うには「毎年クリスマスが近づくと、だんだんお前の欲しがっているものが気になりだして仕方ないんだ。そしてそれを買わなくてはいけない気がしてしょうがない。」「自分もサンタクロースを見たことは無いけれど、自分の親は『サンタクロースはいる』と言っていた。おかしいと思っていたんだ。もしかして、『こういうこと』なんじゃないか?」

この論法でいけば、かなりサンタクロースの存在を表現することに肉薄できるのではないかと思う。サンタクロースというものにとりつかれた大人が、ある特定の振る舞いをせずにはいられないというとき、その見えない何者かは、確かに存在する。存在すると言って発生する問題が、その善行もあいまって、無視できる規模に留まると推測できる。

そしてサンタクロースに関わる諸事とも折り合いがつく。ライセンスを取得して活動している公認サンタクロースも、自らを依り代とするシャーマンであると言えるし、その英雄譚、讃える御歌も含め、カジュアルに文化としても消費されようとも、その存在を認めようとする態度自体は、悪いものではない。もっと意地悪な言い方をすれば、本当は(物理的には)存在しているのに、まるで存在していないように扱われている、あれやこれらと比べてしまえば、よっぽど「存在している」のではないだろうか。

・まとめ

サンタクロースがいるように、社会があって、未来があって、思い出と、夢がある。同じようにあなたがいて、私がいて、そう思う心がある。それを伝える言葉があって、そこには意味があって、それが飛び交う世界がある。存在すること、感じること、生きること、それらの全てがサンタクロースであり、子どもの頃のある日、眠っている間に届いたプレゼントそのものなのである。

メリークリスマス!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?