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2023-09-20

今週はとにかく忙しい。
柔術の練習の時間を創出するのが難しい。

日曜から月曜までは敬老の日も相まって義理の両親に会いに長崎へ。
火曜は接待。
水曜日と木曜日は名古屋出張。
金曜日から日曜日まで家族でCampに行く。

10/29にある試合に向けて6kgほど減量をしなければならない。
減量に一番効果的なのは、やはり練習することである。

なので、今週は名古屋出張に絡めて出稽古に行くしかないのである。

水曜は名古屋のCarpediemに出稽古に行く。
夜のクラスが遅くからあるので、2コマ。

木曜日は早めに福岡に戻って、そのまま1コマ練習に行く。

こうして、なんとか週に3コマ練習できる。
大人の習い事は、時間管理との戦いである。

話は変わる。

日曜日に長崎で一人になる時間があったので、前から行きたかった晧台寺に行ってきた。

晧台寺は長崎の歴史、特に幕末から近代にかけて知るにはとても良い場所で広大な墓地に数々の英雄たちが眠る。

今回、訪寺の目的は2つあった。
・饅頭屋長次郎の墓を見に行くこと
・高島秋帆の墓を見に行くこと

一人の時間は60分ほどしかなかったので、両方の墓の位置次第では片方しか行けないだろうな、ということを想定しながら山門をくぐる。

晧台寺 山門

歴史名勝を訪れるのが好きな人からすると、こういう腹八分な期待値を持っておくことはとても大事なのである。

名勝は往々にして地理的に不便な場所にあることが多く、幾つも欲張って訪問すると時間も肉体も浪費し消耗する。
時間の流れや歴史のロマンに浸る時間がなくなるのである。なので「腹八分」が大事なのだ。

長崎の墓地はその土地柄、傾斜地に多い。
まるで訪れる人を試すかのような、先の見えない階段を登らせるのである。

先が見えない階段

やはり、墓地図をみると広大である。

数多くの人が眠る

饅頭屋長次郎と高島秋帆の墓地は、直線距離はさほど離れていなかったが、
高低差が激しく、特に高島秋帆の墓は相当階段を上がる必要があったので、諦めることにして、饅頭屋長次郎の墓を目指すことにした。

饅頭屋長次郎のことを軽く記す。(一部坂本龍馬にも言及する)
饅頭屋長次郎は近藤長次郎と言い、土佐出身の幕末の志士である。

出自は商人であるが、学問の才覚を土佐藩に見出され江戸留学が許される。
勝海舟に師事し、神戸海軍操練所にも行った人物である。

藩主、山内容堂にも認められ商人の身ながら名字帯刀も許されるほどであった彼は、その人生のほとんどを(彼の出自からすれば)立身出世の道を歩んだ人物であった。

しかし、海軍操練所閉所後は脱藩。
勝海舟共に薩摩藩に身を寄せた。

薩摩にいる土佐浪士の中心的人物になり、まるで薩摩藩士のような働きを見せていたが、同郷で知己であった坂本龍馬や岩崎弥太郎という土佐の巨星との関わりから、それに吸い寄せられるように行動を共にするようになり、長崎にて亀山社中(のちの海援隊)設立に関わる。

さらに龍馬の話に飛ぶ。

坂本龍馬ほど、日本史上評価が分かれる人物はいないように思う。
討幕の裏幕として評価する者もいれば、政治的な影響は直接的に持ち得なかった、と評価する者もいる。

彼の出自が商人から転身した土佐藩の下士であったこと、それにもかかわらずか数多くの脱藩を繰り返したこと、それが許されたこと、そして、彼の最期が暗殺という劇的な死に方であったことなどが、日本人の判官贔屓を助長することになり、私が敬愛する司馬遼太郎先生の小説がダメ押しとなって歴史上ではここ数十年、評価されてきた人物であるように思うが、今は日本史の教科書から坂本龍馬の文字は消えていると言う。

確かに彼は、ドラマチックな人生であったが、歴史という学問の特性からすれば、彼が政治の表舞台にいたか、中心にいたか、という点で再評価してみれば、それは違うのではないか、と思う。
大きな政治的な渦の中で、商売という機能を使って、自己を確立した、というようなことであったにすぎないわけだから、現代の教科書からいなくなるというのは当然の挙動だと私は考えている。

長次郎の話に戻る。

亀山社中は、ちょっとした歴史好きには漠然と「商社」と表現されることが多いが、その内情は「戦争商人」である。

武器、弾薬、兵糧を討幕側に売り捌く。
特に武器弾薬はグラバー商会を通じて仕入れていた。
ここにはドラマはない。
戦争を介して利益を出すという営みをしていたのであった。

長次郎は亀山社中では龍馬の右腕として、グラバーとの交渉などを担当。
相当優秀であったのであろう、グラバーにもその優秀さを見出され、彼の手引きでイギリスへの密航、留学を予定していた。(薩摩藩の出資により)

しかしながら、優秀な人物というのはいつの世も組織の中では嫉妬の対象となり得る。

彼は、その渡航を亀山社中の他のメンバーに悟られ、問い詰められ、かつ金銭の横領をでっち上げられる。
嫉妬の度合いは相当に大きかったのであろう。長次郎はその渡航発覚からわずか数日、しかも坂本龍馬が不在のタイミングで責任を取らされ、切腹して果てるのである。

商人の身から名字帯刀を許され、エリートとして海軍操練所に行き、大きな政治的な渦に巻き込まれつつも脱藩して薩摩で大いに活躍し、亀山社中ではグラバーとの交渉で英国への留学を夢に抱く。

この時の長次郎は、心躍る気持ちであったであろう。
己の才覚を存分に発揮し、それに見合う評価を得られていた。

しかしながら、才覚というのは「誰に見つかるか」が大事であって、その才覚を評価できる人物がいない組織においては、才覚は埋没したり、才覚が発揮できないようにされてしまう。

残念ながら、長次郎にとって亀山社中という組織においては、龍馬のみがその才覚を評価できる人物であり、その他の同志は完全に長次郎の才覚を評価しきれていなかったのである。

長次郎の墓
「梅花書屋氏墓」という字は
龍馬の書と言われている。

長次郎の墓は、その最期を遂げた場所の小曽根という商人の一族の墓の中に建つ。
「梅花書屋氏墓」とある。
梅花書屋、というのは長次郎が切腹をした小曽根氏の建物の別称で、一見では長次郎の墓とは判別できない。

この墓標は龍馬の書と言われている。

龍馬は、彼が不在の中で右腕とも言える同郷の仲間を長崎で失う。
この墓標の字を書いた時、龍馬は何を想っていたのだろうか。

そんな両雄に思いを馳せつつ、緩やかで穏やかな一人の時間を過ごした日曜の午後であった。

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