【食文化】醤油の話:歴史編(1)~醬油の起源について
先日、ラーメンを食べにいったら、
醤油ラーメンが3種類用意されていました。
・淡口醤油ラーメン
・白たまり醤油ラーメン
・たまり醤油ラーメン
どれも旨そうなのですが、その違いが何だかよくわからない!
という訳で今回は、我々の生活に欠かせない、
醤油の秘密を探ってみます。
1. まずは「醤油」の起源から
日本の調味料、
例えばラーメンでいうと「味噌」「塩」「醬油」。
この3つをラーメンファンは「基本三味」と呼びます。
この「基本三味」に「砂糖」と「酢」を加えた5つを「調味料のさしすせそ」なんて、言ったりもしますね。
さ=砂糖、し=塩、す=酢、
せ=せうゆ(醬油)、そ=味そ
では、これを「古い順から並び替えろ」なんてクイズが出たら困ってしまう😅
まぁ、塩が一番古いのは分かるとして、味噌と醬油はどっちが先か?
あまり考えたこともありませんよね。
実は、これには諸説ありまして、
今、我々が食べている「醬油」という黒い液体の調味料が出来たのは意外に新しく、江戸時代なのです(驚)。
ところが!
醬油の原型になる「醬」で考えると、
平安時代よりさらに前、奈良を越え、飛鳥、古墳時代を更に過ぎ、なんと弥生時代も通り過ぎ、
「縄文時代」の末期まで遡るという
驚愕の事実が判明しました!!!
2. 始まりは食糧保存の技術から
昔、昔、遥か昔、人類にとって最大の課題は、
食糧の確保と、確保した食糧の保存でした。
冷蔵庫がある現代ですら、夏場はちょっと油断すると食べ物はすぐに腐ってしまいます。
そこで、我々のご先祖様は、食糧を塩漬けにすると、長期保存が可能になるという事実に気付いたのです。
食べ物を塩で漬けると長期保存ができるということは、世界各国でもかなり古くから知られていて、なんと今から8千年前も昔の、紀元前6千年頃のエジプトでも、食肉を岩塩の中で保存していたと言われています。
肉や魚など、食糧を塩漬けにして発酵させたものを
「醤」と言います。
紀元前700年頃の古代中国・周王朝の古文書「周礼」には、
醤油の原型となる「醤」に関する記述があります。
中国では古くから「醤」が人々の食生活に不可欠な食材であったようです。
「醤」は、古代の貯蔵食品の総称で、
動物や魚の肉や内臓を、塩と酒で漬け込むと、ドロドロに発酵して、長期保存が可能となります。
つまり、
食糧の保存技術として、まずは塩漬けが発展しました。
また、日本でも縄文時代から既に塩田が作られていて、塩を製造していたとされています。
当然、食糧を塩漬けにしていたと推察されますね。
塩には脱水作用があり、その昔学校で習った知識では「浸透圧」という現象なのですが、つまりこれは、食品に塩をかけると、脱水作用により水分が浮いてくるという現象を指します。
「青菜に塩」ということわざがあるように、
野菜を塩もみすると、野菜から水分が抜けて、しおれたように柔らかくなるのはそのためです。
因みに、ナメクジに塩をかけると溶けるとされるのも、この浸透圧の作用によるものですね。
水分があると菌が繁殖する原因となり、食べ物を腐らせてしまいますが、塩漬けにして水分を抜いてやる事で、それを防いでいたのですね。
その食べ物から抜けた水分が、「醤油」という調味料の原型になるのです🤔。
3. 様々な「醤」
人々は様々な食糧を塩漬けにして保存食「醤」を作りました。
「醬」には
魚を使った「魚醤」
肉を使った「肉醤」
野菜を使った「草醤」
米や大豆など、穀物を使った「穀醤」
などがあります。
魚醤は、地中海から東南アジア、中国、朝鮮、日本など世界各国に広まっています。
エスニック料理に欠かせない、タイの「ナンプラー」やベトナムの「ニョクマム」は、魚を塩漬けにして浮き出してきた水分を使った「魚醤」です。
強烈な魚の香りがクセになりますね。
イワシから作るイタリアの「アンチョビ」も魚醤の一種です。
また、日本でも、秋田の「しょっつる」、石川の「いしる」、香川の「いかなご醤油」などが、魚醤として残っています。
「イカの塩辛」や「なれずし」なども、魚醤文化の名残りと言えますね。
「なれずし」といえば、北海道の「飯寿司」なんかまさに「魚醬」のイメージに近い食べ物かもしれませんね😃
また、野菜を使った「草醬」は、やがて「漬物」へと進化していきます。
4. 古代中国の王が食べていた食事
折角なので、ちょっと中国の話にも触れておきます。
中国の歴代王朝。確か高校時代に習いましたね。
中国最初の王朝が「夏」(紀元前2000年頃)。
続いて「殷」(紀元前1600年頃)。
その次の王朝が、紀元前1000年頃に誕生した
「周」となります。
この頃の日本は「縄文時代」です。
なお「周」の後が、「春秋・戦国時代」、
その後に、「キングダム」で有名な「秦」が誕生(紀元前221年)します。
初めて中国を統一した、「秦の始皇帝」でも有名ですね。
そして、「漢」の時代へと続きます。
この頃の日本はようやく「弥生時代」となります。
そして、中国の王朝は
三国時代(魏・呉・蜀)、晋、南北朝時代、隋、唐、五代・十国時代、宋、元、明、清、中華民国、中華人民共和国
へと続いていきます。
話が脱線しました💦
さて、この周の古文書「周礼」には、
王の食事が細かく記載されています。
それによると、王は
6種類の穀物を食べ
(稲、麦、豆、粟、もちきび、うるちきび)
6種類の肉を食べ
(馬、牛、羊、鶏、豚、犬)
6種類の酒を飲み
120種類の菓子を味わう。
8種類の料理(八珍)を作るのに
120種類の「醤」を使う
と記されています。
この「醤」は
獣や鳥、魚、を塩と酒、粟麹で漬けて発酵させた
「肉醤」「魚醤」であったとされます。
現在の醤油のルーツとなる大豆を使った「穀醤」が文献に登場するのは、
6世紀の南北朝時代の書物「斉民要術」が最初とされます。
こちらは世界最古の農業技術書で、
「穀醤」の作り方が解説されています。
(参照)「日本食文化の醤油を知る/村岡 祥次」
5. 鉄器の普及が穀醤を生んだ
「周」の時代、古代中国の王が食べていた食事で既に「醤」が使われていたのですが、これは主に肉や魚を発酵させたものでした。
紀元前600年頃、「周」の次、「春秋・戦国時代」になって、鉄製の農具が普及していきます。
鍬や鎌、鋤といった鉄製の農具の普及は、牛を使って畑を耕す牛耕農業を可能にし、農作物の生産を大きく向上させます。
「秦」を経て、「漢」の時代になると、鉄器の普及によって食糧生産が安定したことで、人口も3倍以上に増加します。
特に、栽培や保存が容易であった大豆は、大幅に普及し、農業を天下の根本とする「漢」の武帝の時代には、大豆の栽培面積が作物全体の4割を占めたと言われています。
このため、大豆を原料とする「穀醤」が同時に広がっていきます。
この頃、弥生時代であった日本にも、鉄器と同時に「穀醤」の製造方法が伝えられ、日本人にも食べられるようになっていったと考えられています。
話が長くなりそうなので、一旦ここで区切ります。
ちょっとじっくり醤油の秘密を解き明かしていきますね😅
次回は、「日本における醤油の歴史」を予定しております。
それでは、また😉
(つづく)
(2023年9月19日投稿)
つづきはコチラ
▼▼▼
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?