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平成14年、突発的桂浜ツーリング・後編

 翌朝一番に、坂本竜馬記念館に行った。海の見える丘の上の、なかなかモダンな明るい建物だった。正直にいうと、僕自身は今まであんまり坂本竜馬という人のことにそれほど興味が無かったのだけど、やっぱりこうして資料を見るとつくづく面白い人やったんやなあと思った。幕末の日本を走り回って、明治維新の形を作った人、というふうに、大雑把な知識としてしか知らなかったけど、実は日本で初めて新婚旅行に行った人だった、なんて書いてあるのを見ると、ふーん、ほなそれまで、日本の人は結婚しても特にどっか遊びに行ったりしいひんかったんやなあ、とか、なんか却って別の方向に感心してみたり。

 記念館を出ると、一気に高松を目指す。高知インターから高速に乗って、四国山地をトンネルで突き抜けて、一気に瀬戸内へ。高知から見た、広々と雄大な太平洋。対して今見てるのは、箱庭のように美しい瀬戸内海。どちらの海も良い。ほんとに。

 実はゴンちゃん、昨日の女の子と今晩八時に食事の約束を取り付けてたので、二時までにはフェリーに乗らないといかんのだ。で、結構急いで高松へ。

 フェリー乗り場に着いたら、一時間ほど時間があった。これは讃岐うどんを食べに行くしかない。乗り場の窓口に居たおばちゃんにお勧めの店を聞くと、屋島ドライブウェイの入り口にある店が良いというので、急いで単車に乗って向かう。店に着いて、ふと何となく見覚えが有るような気がした。そうや、五、六年前にニフティ(パソコン通信)のオフ会で来た事あるわ、ここ。うんうんそうやそうや。

 讃岐で本場のうどんも食べたし、フェリーに乗って一気に神戸へ帰る。フェリーの中で、いろいろと話をした。

 「やっぱいいよなー、ツーリング。来て良かったよなー。俺さぁー、いずれ向こう引き上げて日本に帰ってくるときは、バイクで陸続きにツーリングしながら帰って来たいんだよなー。アメリカ横断して、船でヨーロッパ渡って、シベリア越えて」

 「シベリアかあ、寒そうやなあ。せやけど、鉄道沿いに移動したら最悪の場合でも野垂れ死にせえへんでええかもなあ。シルクロードよりは安全かもなあ」

 「まあ、何年先になるかはわかんないけどね。そろそろ学生ビザではやばそうだし、今ちょっときちっとビザ取り直そうと思って、知り合いの弁護士に相談してるんだ」

 「せやなあ、自分アメリカ行ってもお五年になるもんなあ。ビザ取って、まだまだ当分アメリカに居てるんやろなあ」

 「そだね、とりあえずまあ飽きるまで居るよ。飽きたらまた別の国に行くかもしれないけどね。で、帰りたくなったら帰る」

 「ええなあ。そおゆう生き方、憧れるけど、せやけど多分僕はよおしいひんわ。旅行は好きやし、一人でぶらぶらするのも好きやけど、やっぱり家に帰りたなるもんなあ。何ていうか、旅好きやけど、中でも旅から帰ってくる瞬間が一番好き、みたいな」

 「うん、それもわかるよ。だって今、日本帰ってきて、楽しいもん俺。何と言っても看板やら本やら、書いてある全てが分かる、っていいよね。向こうでは半分くらい謎だから」

 「全部はわからない」

 「そうそう、わかんない」

 「今回はいつごろまで日本居てるん」

 「そだね、四十九日が終わって、十一月ごろにまたヨセミテ帰る。で、向こうで荷物まとめて、来年二月ごろにまた一旦帰ってくる。こっちから本腰入れてビザの手続きしようと思ってね。で、六月ごろまた向こうへ渡る」

 「そうなんかいな。ほな、来年四月ごろ、青森遊びに行くわ」

 「うんうん、来て来て、きっと退屈してるから」

 そうこうしてる間に、フェリーは神戸港第三突堤に着いた。西宮までは国道四十三号線の退屈なルート。そしてその晩は、アウトレットの子も含めてみんなで広島焼きを食べに行った。平日二日間、突然サボって実に楽しい良いツーリングだったことであるよ。

後日談・その後、ゴンちゃんは十一月に成田からヨセミテに帰っていった。僕もその時東京に用事があったので、空港までお見送りに行った。二月、メールが来た。「来週帰る、もうマックも梱包してしまうから、これがアメリカからの最後のメールになる。次は日本からメールするね」という内容だった。しかしそれを最後に音信が途絶えてしまった。あれから二十年近くになるけど、彼はいまどこでなにをしているのだろう…。


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