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#13『メルヒェン』ヘッセ

 表紙の絵がとても素敵。
 20年ぶりの再読。ヘッセは私にとって人生の大恩人。昨晩、目を閉じて「人生の大恩人は」と自問したら、迷うことなく「ヘッセ」の名前が浮かんできた。
 あれは、そう、大学2年生の時のこと(多分)。古本屋でバイトをしていた。レジの隣に在庫があり、そこで見かけた『デミアン』。これが私にとってヘッセとの出会いで(その前に『車輪の下』は読んでいたがスルーしていた)、私は初めて、人生には意味と目的があることを意識的に自覚した。
 それは「自分になる」ということ。
 
 それまで、生きることがどういう意味と目的を持っているのか、全然分かっていなかった。考えてはいただろうけれど「ああなりたくない」「あれは出来そうもない」くらいの所で止まっていた。
 自分を掘り下げ彫り込んでいくと、まだ見ぬ、そして真なる自分がいて、それは一生をかけて続けていくべき営みであること、それは避けようにも避けられないものであることを、私はヘッセに教わった。
 「求道」という言葉が自分の人生の中心になった。その先に今の自分がいる。このへんてこな人生も、今している仕事も、何もかも。

 『ガラス玉』以外は全部読んだと思う。そして去年、『シッダールタ』と『知と愛』を再読した。不思議にも…ではないのだけれど、全然良いと思わなかった。『メルヒェン』を今は読んでいる。全然良くない。この心変わりは恩知らず過ぎる気すらする。しかし自分なりにそれが何故なのか考えてみた。

 ヘッセを読んだ学生の頃、私は自己実現や求道ということを知らず、ヘッセに教えてもらった。だからヘッセは先輩だった。私はそういう生き方を外から見ていて「そんな生き方があるのか」と感銘を受けたのだった。その後自分自身も同じ道に入った。今ヘッセを読むと、過去に受けた「憧れ補正」が働かない。「憧れ補正」が働いていた時、ヘッセの全てが眩く見えて、欠点は目に付かなかった。今はそれが見える、見えてしまう、という訳。
 
 心理学者ユングはドイツ的精神を『ファウスト』に見出している。生ある内に感覚と体験を全方位に極めたいという尽きせぬ欲求。そのためならどんなものも誰をも犠牲にすることを厭わない自己中心主義。そして夢叶わぬなら死んで終わらせるという破滅指向。現実主義的ではなく理想主義的、博愛的理性的ではなく自己陶酔的。
 本書『メルヒェン』収録の「笛の夢」にも次のような一節がある。

「この世界の無数の歌を、草や花や人や雲や、森や松林やすべての動物の歌を、その上また遠い海や山々や星や雲の歌を残らず同時に理解し歌うことが出来たら、そういう全てのものが同時に私の中で鳴り響くことが出来たら。そしたら私は神様になり、新しい歌の一つ一つが新しい星となって空に輝くに違いないだろう」62

 要するにロマン主義である。行ける所まで行ってみたいという願い、精神によって肉体的限界を征服したい、むしろ滅ぼしたいという強い思い。現実原則として絶対に不可能なはずのことを、それが叶わないと死なんばかりに深刻に焦がれ求める。非常に緊張度の高い、精神主義的な民族である。だから、有能なんだろうね。
 ユングはこの気質が民族レベルで奔流のように湧き出したのが、ドイツ人による熱狂的ヒトラー礼賛とその結果としての無残な第三帝国崩壊だったと言っている。

 私は『ファウスト』を読めない。「何をしたいんだこいつは」という思いが先に立って、彼の言っていることが一言半句も真面目に取れない。地に足のつかない理想と妄執と煩悶についていけない。「まあ、落ち着け。そしたらそんな願いはどうでも良くなる」と言ってあげたくなる。
 しかしドイツ的なロマン主義はもはやドイツ人だけのものに留まらず、現代の人類社会を牽引する力であると共に、破滅に導く力としてすっかり役を得てしまっているとも思う。「足るを知る」の対極に今の文明はあるし、ゆえに日進月歩で暮らしは便利になっていく。抵抗しようとしまいと、肯定しようとしまいと、この流れは変わらないでしょう。

 ヘッセにもやはり同じ精神性が出ている。『シッダールタ』と『知と愛』は後期の代表作だが基本的に筋は同じで、「能力と魅力に恵まれた男が、住み慣れた平凡な暮らしを軽蔑して棄て、旅に出る。彼は能力と魅力によって生存に困らない。そして異様に女に好かれて愛欲にまみれた日々を送る。しかし完全な俗物と化した後、無常を悟り、全てを捨てて粗末な暮らしに引きこもる。最後は大いなる存在の愛に包まれて死ぬ」というもの。
 成長物語としては基本的な形をしているし、実際、人生にはそういう風景もあるものだと思う。ただ彼の主人公は乱暴すぎる。自分のために他人を利用することにいささかも良心の呵責がない。そういう所が、まさにユングの指摘したドイツ的精神だと思う。「なぜここまでやらないといけないかな」と私などは思ってしまうのである。

 自分が自己実現の道の外にまだいた時、そのなりふり構わぬ生き方に大いに惹かれるものがあったのだと思う。しかしその道に入り充分に年齢を重ねてから(今41歳)読むと、ヘッセはこの年齢でもまだどうしてもこれを書かないといけないほど煩悩が強かったのかなと思えてしまう(出版時45~53歳とのこと)。
 私の感覚だと、そういう精神年齢は遅くても30歳がいい所ではないだろうか。30代も半ばになればそろそろ積み上げていくことを自然と考えるようになるし、究極の理想未満のものなら何でもかんでも壊して良いという発想は自然と薄れると思うのだが。勿論、芸術家にそういうことを要求するのは野暮かもしれないが、しかし。

 ヘッセは作為的でない人なので、「こういうのを書くとウケる」みたいな発想は特に『デミアン』以降はしていない。ただ内面を覗き込んで出てくるままに書いている。だから小説作品として、出来は正直あまり良くない。人間同士の対等のぶつかり合いがなく、主人公の自問自答や欲望や恐怖をヘッセが説明するためにほとんど全ての登場人物は利用されているに過ぎない。だから用が済むと登場人物はすぐに消えるし、主人公が必要とするとすぐにまた次の登場人物が現れるといった具合。
 そういう所を見ても、ヘッセは理想主義的、内面的で、人生を丸ごと眺めて体験しているタイプではないな、と思う。『ファウスト』もそうだが、自分の欲望と恐怖しか見ていない。自分に必要な人しか出て来ず、自分を必要とする相手というものが出てこない。また、どうでも良い人が出てこない。

 内面に引きこもり、外界との連絡を絶つと、妙な具合に理想が大きくなる。ファウストは「時よ止まれ、おまえは美しい」という言葉が出たら死んでもいい、なんて賭けをしたが、やっぱり実人生を生きていない人だけが持ち得る変な発想である。人生は普通に、見ようによっては美しい。絶対的にどこから見ても誰が見ても美しい時間なんてものは存在しない。逆に、つまらない馬鹿馬鹿しい無益に思える時間も、心一つで見方を変えたり意識を浄化したりすれば美しい時間に様変わりする。死を質に悪魔と取引するようなものではない。
 ヘッセの主人公もこの系譜に従って究極の何かを求めているのだけれど、それもファウストの「時間」と同じで、外からやってきてくれる訳ではない。どんなに金を稼いでもどんなに女と遊んでも、自ら充足の境地に入る以外に道はない。

 勿論、そういう人生の真理を寓話的にヘッセは書いている、とも言えるかもしれないけれど、それが一作なら確かにそうかもしれない。しかし『シッダールタ』『知と愛』と二作も同じ主題で書いたのは、やはりヘッセ自身が内側からしつこくこみ上げてくる妄執を浄化しきることが出来なかったのではないか。等身大の煩悩だったと思うのである。

 ようやく『メルヒェン』の話なのだが、これは短編集で最初に『アウグストゥス』という作品がある。これがまた『シッダールタ』『知と愛』型なのである。
 流石に「またあ?」と思ってしまった。
 調べてみたら36歳の時の作品だった。ヘッセを決定的に内向型作家に変えた『デミアン』(42歳)より 先なのである。
 『アウグストゥス』はとても短い作品。ヘッセはこの人生の「型」をこの時、発見したのだろう。もしかしたら最初は特に深い思いもなく、想像力の滴るまま素朴な寓話として書いたのかもしれない。しかし「この『型』なら自分の魂の悩みを描き出せるかもしれない」と思い、『シッダールタ』を、それでもまだ足りずに『知と愛』を書いたのかもしれない。というか、それなら納得できる。
 『アウグストゥス』の粗筋は先程、「パターン」として述べた通り。アウグストゥスという男の子が生まれた時、母はこう願った。

「私はおまえのためにお願いするよ。皆がおまえを愛さずにはいられないようにと」15

 このお話はメルヒェンなので、これで母親の願いが叶ってしまう。そしてアウグストゥスは人から愛されるが誰をも愛さない駄目人間として生きていく。
 しかし最後に彼は気付く。後悔する。そしてこう願う。

「僕の役に立たなかった古い魔力を取り消して下さい。その代わり、僕が人々を愛することの出来るようにして下さい」34

「愛されるより愛することが出来る人は幸せだ」というヘッセ最大のメッセージがここに表れている。
「愛することが出来るようになりたいです」なら申し分ないのだが、それを頼んでどうするんだ、という思いは残るが…勿論メルヒェンであるし、願いで始まった話だから願いで終わるのは構造的には良いと思うが、精神的には未熟だなあ。
 
 なんか、駄目出しばかりしてしまった。実際、褒められる所がない。
 にもかかわらず、ヘッセのきらめく心は今なお私にとって魅力的なのである。不完全ゆえに魅力的、というのか。これは決してお世辞ではなく。というのも、こんなに正直で、正直であるがゆえに不器用な小説家は他にいないと思うから。
 ヘッセはきっと小説家である以上に「人間」だったのだと思う。
 

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