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小説:Limit ~無限の彼方に~  第一章 殺人は柚子の香り 第11話

~~あらすじ 第10話までの内容を忘れた、ココから読み始める方へ~~

藍雛らんじゅは敵組織『ソドム復活委員会』のメンバーであるレイカを追跡する任務に就いていた。レイカ達は、他の時代や空間への行き来ができる『時の回廊』を飛行する。藍雛の予想に反して、レイカは4歳児の姿になって藍雛の幼馴染みである洋希ようきが2歳である22年前の世界に降り立ち、彼を柚子アレルギーに見せかけて暗殺しようとする。藍雛は他の時間軸の世界に降りることはタブーだと聞いていたので、レイカの行動に驚くも、時の回廊内から、新型ブラスターで、レイカを始末しようと考える。だが、洋希を巻き添えにすることにためらう藍雛。彼女の脳裏には、洋希と過ごした夜の出来事が思い浮かぶ。その間にも洋希の命は尽きようとしていた。思い出から我にかえった藍雛は、今度は、狙いを洋希の治療へと切り替え、二発の薬剤混入ブラスター弾を発射する。浴室内は発煙し、浴室から脱出したレイカは小型拳銃を構える。

     ~~本編~~

 洋希ようきは喉が詰まったようになって息を吐くことができず苦しむ中、必死で願いをかけた。言語の理解力はあるが、喃語なんごを多少話せる程度の彼の頭の中には、はっきりと「パパ、ママ、助けて」と考えが生じたわけではない。それに、願うことでそれが叶うと思ったわけでもない。

 だが、彼の本能は心で叫ぶことを渇望したのだ。幼児は背中に激しい痛みを受けて、湯の中に倒れ、湯が口から胃や気管に委細構わず流れ込んだ時にも、心はひたすら助けを求めて続けていた。

 ひたすら生存への執着と闘争への本能が彼の生命を燃やし続けていた。消えかけた蝋燭の炎が、芯とその周囲のわずかな液化した蝋だけで燃え続けるように、まだ幼児の心臓と脳だけは反抗期の如く死に対して逆らっていた。それは彼の本来備わっている唯一にして絶対の武器、凄まじい生命力だった。心の深層から生じる叫びに応えるものは、彼の心には届かないが、それにも関わらず、彼の心は緊急サイレンを発し続けた。

 やがて、苦しみがやわらぎ、彼は自分の体がかろうじて意志に従うことに気づく。うつ伏せになっていた状態から身じろぎをし、むっくと頭を起こすと、誤嚥した湯を激しい咳で吐き出した。

 その小さな足をやおら自分の腹に引きつけ立ち上がると、周囲は煙で何も見えなくなっていた。だが、煙の向こうに――つまり脱衣所の方に――ぼうっとした明かりが見つかった。そこに魅かれるように目を向けた時、遠くから――脱衣所ではなくどこか彼のあずかり知らない所から――自分を迎えに来る者が近づきつつあることを感知した。

「僕の困ったときに、必ず助けに来てくれるのはパパに違いない」と、二歳児の頭の中にこんな考えが浮かぶはずがない。だが、何者かが近づいて来るという直観と、過去に泣き叫べば必ず父親に抱き上げられた記憶が、そのようなぼんやりとした概念を生じさせていた。

 洋希は立ち上がって丸めた背中をピンと張り、浴室のドアの遥か向こうを見つめるようにして叫んだ。
「インヤー、パッパ! パッパ! ヤー、パッパ!」



 その頃、力強く地面を蹴りつけながら、洋希の自宅を目指す者がいた。巨大な踵は、裸足のまま地面に削られ、うっすらと血が滲んでいた。その足と下腿部は隆々とした筋肉の鎧に包まれている。足の持ち主の呼吸は乱れ、上半身は小さく、下半身の大きさとは明らかに不釣り合いだった。顔は上気し、目は助けを求める声に感応するように血走り輝きを見せている。
 洋希の助けを感じ取り、全速力で駆け抜ける人間。
それは洋希の父親ではなく、一ノ関いちのせき耀馬ようまエリオット――、洋希の幼稚園の同級生であった。



 一ノ関家は、洋希の家から百メートルと離れてはいない場所にあった。そのリビングルームの一角が耀馬にあてがわれた、自由に過ごせるスペースだった。
 彼の空間にはテーブル、小さなスウェーデン製の椅子、ウォルナットのディスプレイラック、その下には本棚、隣には桃の木でできた収納箱が、リビングの一角を覆うように配置され、どれも耀馬が腰かける中央の椅子からは手に届く位置にあった。ディスプレイラックには海外のクリスマスの絵本――英語版と日本語版の両方――が配置され、本棚は、彼が生まれてからこれまで手にした絵本が寸分の隙もなくぎっしりと詰められていた。収納箱には、これまた本人の希望と、彼の母親メアリーの好みで集められた『教具』が多数――雑然とではなく、ジグソーパズルのように立方体の箱からはみ出ないように精密に――並べられていた。彼は教具のどれも気に入っていたが、その中でも一番のお気に入りの教具、――彼の通うモンテソーリ教育幼稚園では知的玩具の事をそう呼ぶ――であるハンマーを手に取り、その質感を味わいながら、今日の幼稚園で学んだことを反芻していた。

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