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小説:Limit ~無限の彼方に~  第一章 殺人は柚子の香り 第19話

~~あらすじ 第18話までの内容を忘れた、ココから読み始める方へ~~

藍雛らんじゅは敵組織『ソドム復活委員会』のメンバーであるレイカを追跡する任務に就いていた。レイカ達は、他の時代や空間への行き来ができる『時の回廊』を飛んでいた。藍雛の予想に反して、レイカは4歳児の姿になって藍雛の幼馴染みである洋希ようきが2歳である22年前の世界に降り立ち、彼を柚子アレルギーに見せかけて暗殺しようとする。藍雛は他の時間軸の世界に降りることはタブーだと聞いていたので、レイカの行動に驚くも、時の回廊内から、新型ブラスターで、レイカを始末しようと考える。だが、洋希を巻き添えにすることにためらう藍雛。彼女の脳裏には、洋希と過ごした夜の出来事が思い浮かぶ。思い出から我にかえった藍雛は、今度は、狙いを洋希の治療へと切り替え、二発の薬剤混入ブラスター弾を発射する。浴室内は発煙し、浴室から脱出して拳銃を構えるレイカ。洋希は症状が改善して立ち上がり、浴室の向こうから誰かが助けに来ることを予感する。その時洋希の幼稚園の同級生、一ノ関いちのせき耀馬ようまエリオットが洋希の家に向かっていた。彼は、苦しむ洋希のイメージが頭に浮かび、助けに行くことに決めたのだ。

     ~~本編~~

「仕方ないわね。あなたが洋ちゃんとお話したいなら、今回だけよ。ただし、向こうがご迷惑でなければ……」

「ありがと」

 耀馬ようまがフローリングを蹴った瞬間、ドン、と床に小さな爆発音が響き、彼はあっという間に玄関のドアに到達していた。メアリーは、彼が床を蹴った衝撃で、ほんの数センチだが体が浮き、後方に飛ばされ、ダイニングテーブルに手をついたことで、頭部を受傷することから免れた。

 二人とも、起きている事態に理解が追いついていなかった。耀馬の方は、気づいたら玄関にたどり着いていたので、途中のダイニングや廊下を通った記憶を保持することはおろか、その前に彼の下半身が巨大化したこと――極大化した大腿四頭筋の重みや、それを膝下で受け止めるすねの前脛骨筋ぜんけいこつきんやふくらはぎの腓腹筋ひふくきんの隆々たる膨らみも――を感じ取ることさえできていなかった。彼が走るという意志と意識を持っただけで、爆発が生じ、目の前には玄関が現れたのだ。

玄関を躊躇うことなく彼は開けた。まるで頭の中の洋希ようきに操作されているかのように。

メアリーもまた、耀馬の下半身の異変には気づかず、ただ、少し時間を置いて、彼が恐ろしいスピードで家から出て行ったことだけは理解できた。すぐに追わなくては、そう思ったものの、行き先がほんのすぐ近所であることを思い出すと、室内着である古いボーダーシャツを着替えてからにしようとクローゼットに手を伸ばした。

 

 

「インヤー、インヤー、インヤーパッパ!」
 浴室のドアの向こうから洋希の空気を貫くような声が聞こえ、レイカは彼を事故死に見せかけて殺害する計画が水泡に帰したことを察した。花梨に内服させた下剤の効果も長くは続かないことを考慮すると、彼女に残された選択肢は二つしかなかった。退却か強硬手段か。

 レイカはデリンジャー銃を持っていない方の手で、中折れ式の浴室ドアをそっと開けた。中から湯気に混じって煙が彼女の身体を覆うように流れ出してきたが、もうガス弾の中身を詮索する必要もなかった。二歳児がどうやって柑橘アレルギーから立ち直ったのか、おおよその推測はついていたが、現時点での彼の姿を見極めようと、彼女は煙の向こうに目を凝らした。

 霧のようになった浴槽の中から、彼女は信じられないものを目にすることになった。それは立ち尽くしている幼児の姿ではあったが、名状しがたい迫力を伴っていた。一見、裸で水滴だけを身に纏ったただの小さな男の子なのに、遥か遠くを見据える眼光はいつもの無邪気さではなく、全ての闇を暴きかねない鋭さとどんな罪人つみびとも赦さんとする慈悲を湛えて小さく揺れていた。その口から発する意味のない言葉は、まるで古代語で説教をしているような響きとリズムを持ち、聞く者の脳髄を痺れさせたであろう。そして、昼間の耀馬を癒した微かな光、その金色のオーラが洋希の守護精霊のようにうっすらと彼の周囲に降りていた。その精霊たちは彼の栄光を讃え、彼の敵を打ち倒さんとする生命体のようであった。彼の目を見、その声を聞き、その光を感じ取った全人類は彼にひれ伏すであろう、そんな威厳を備えていた。

 レイカは、この二歳児とは思えぬ神々しさに、我知らず感動と後悔で涙滂沱ぼうだし、自身の肉体をその地へ崩れさせてしまいたい衝動に駆られた。口から出る言葉は、彼女の中で「遅くはない。悔い改めよ、悔い改めよ!」と変換され、彼女が今まで委員会のために戦ってきたことは勿論、彼女の生まれてこのかた背負ってきた運命全てが原罪であるという思いに至らせ、その重みで心を崩壊させられそうになった。彼女は洋希の光に触れ、その足元にひれ伏して足に接吻しさえすれば、罪は許され、これまでの苦しみも恐れも不安も全てが雲散霧消し、彼と歩みを共にして、マグダラのマリアのように彼の身体に香油を塗る役割を買って出れば、喜びと蜜の甘さに守られる別の新たな運命に身を任せられるのではないか、そんな思念が彼女の中を駆け巡っていた。彼女の闘争への意志と組織へのゆるぎない忠誠心は、この幼児のオーラの前では無力となりかけた。

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