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「おいしそうな森」はおもしろそう

 はじめて「おいしそうな森」のお話を伺ったとき、私のアンテナがピーンと立った。「おいしそう」と「森」という2つの語句を組み合わせることにある種のおもしろさを感じたからである。この組み合わせ、ちょっと意外だと感じられるかもしれないが、私が長年研究対象としてきた熱帯地域の農山村では全く違和感がない。それどころか、狩猟採集民や焼畑民などの森を糧に生きている人々からすれば、極めて当たり前の発想である。彼らにとって、食糧、燃料、建材、薬など、生きるために必要なさまざまな物資を供給してくれる森は、私たちにとってのコンビニのようなものなのだ。

 現代の日本では、食あるいは農と森は、法的にも意識の上でも、当たり前のように切り離されている。ありふれた森の幸であったはずのキノコですら、メジャーなものは工場で菌床栽培されるようになってきており、もはや森の幸とはいえなくなっている。学問の世界でも、農学は農業を研究し、森林科学は森林や林業を研究する、といったように、専門分化が著しい。そのため、学識が深まるほど専門外のことがわからなくなり、両者はさらに切り離されていく。

 しかし、そもそも森と農は厳密に切り離されるべきものだろうか?農と森を一定期間で循環させる焼畑(写真)、背の高い木々の陰で育つコーヒーの畑、エビを育む養殖池に生えるマングローブの木立は、森ではないのだろうか?両者を切り離すことにどんな意味があるのだろうか?ひょっとしたら、切り離して考えることで、私たちは食や森が持つ豊かな可能性を無意識のうちに奪ってはいないだろうか?

写真:東南アジアの焼畑(マレーシア・サラワク州で筆者撮影)

 考えてみれば、私たちの社会にはびこる孤独やつながりの喪失は、このような数限りない「切り離し」によって生じてきた。そしてそこには、私たち人間と自然との切り離しも含まれる。里山が「荒廃」していったのは、食やら農やらエネルギーやらが混然一体となった「コンビニ」がばらばらにされ、それぞれが別の何か(例えば灯油や化学肥料)に取って代わられることで利用価値がなくなり、結果として放置されるようになったからである。

 周知の通り、現在では里山は、豊かな生物多様性を育む場として積極的な意義を認められ、その再生が叫ばれている。里山は人の手が入ってこそ成立する二次的自然であるため、再生のためには放置された山に手を加える必要がある。これを人間の側から見れば、孤立した人間を、社会や自然の中に埋め戻すことが求められているともいえよう。もし私たちが、里山に対して以上のような意義を認めるのであれば、森を「おいしく」することで「コンビニ」を昔とは違ったかたちでつくりなおし、人間と自然、そしてそこに関わる人たちをつなぎなおすことはできないだろうか。あるいは、「おいしそうな森」をつくることで、森と農に新たな関係をつくりだせないだろうか?

「おいしそうな森」の活動が、私のそんな屁理屈とどうつながってゆくかは現時点ではわからない。ただ単純に「おもしろそう」という思いのほうがよほど大事なことだろう。それぞれが感じる「おもしろさ」がある。これを大事にしながら、それぞれが森や人との友情を育む場になればよいのではないかと思う。

文・写真:生方 史数(岡山大学)