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タイの田植えで考えたこと


田植えの風景。どこか奇妙に感じませんか?(タイ東北部・ヤソトン県にて筆者撮影)

 まずは、上の写真をご覧いただきたい。これは、私が15年ほど前にタイ東北部で写した田植えの風景だが、何か変なところはないだろうか。
 そう、水田に樹木が生えている。住民の先祖が、かつて森であったこの土地を開拓する際に、有用だと思われる樹木を残したのである。これらの樹木は、さまざまな用途に使われる。例えば、将来家を建て替えるときの建材として。あるいは、花を愛でる観賞用として。はたまた、水牛や牛をつなぎとめる自然の杭として。そして、人々が作業の合間に休息する木陰として(熱帯は暑いのです)。
 残したのではなく、あえて植えた樹木もある。写真右にある列状の灌木がこれにあてはまる。水牛や牛の飼料として畦に植えられたものだ。この地域では雨季と乾季(気温が下がる寒季を含む)がはっきり分かれていて、乾季には水田は家畜の放牧地として利用される。
 なお、写真には写っていないが、この水田には魚を捕る網が据え付けられており、網にかかった魚は日々のおかずに供される。そして、コメの収穫が終わり寒季に入ると、水田内の池に水を残して魚を集めておき、毎日そこに捕りにいく。13世紀に活躍したラームカムヘーン大王の碑文に「水に魚あり、田に稲あり(nai nam mi pla, nai na mi khao)」という有名な一節があるが、まさにこの句の通りの生活である。さらには、水田やその周囲に棲む様々な生き物、例えば、カエル、サワガニ、タガメ、ゲンゴロウ、コオロギ、オケラ、イナゴなどが、人々の追加的な食材となる。余分に取れた場合は、これらが市場で売られる。家計に貢献するのみならず、生き物を好んで取りに行く子供たちのお小遣いとなったりもする。
 以上からもわかるように、この地域の水田は、単にコメを収穫するだけの場所ではない。樹木を育み、家畜を放ち、魚を養う複合的な生業空間なのだ。人、稲、樹木、魚、昆虫等に相互関係があることを考えれば、人々の生活を基礎とした1つのエコシステムといってもよいかもしれない。前回のコラム(「おいしそうな森」はおもしろそう)で紹介した焼畑も、この点では同じである。このような空間では、森だの水田だの池だのといった土地利用上の区別は相対的なものでしかない。住民からすれば、どこであろうが、何と呼ばれようが、ちゃんと利用できさえすればよいのだ。
 ただ、視点を変えて国家や開発論者や学者(!)の目線からみると、見方はがらりと変わる。この水田は、コメの生産性という点から見れば、残念ながら低い評価しか得られない。彼ら(そして私たち)は、エコシステムや生活のなかの水田よりも、それらから切り離された「コメの生産工場」を好む。そして、ターゲットや目標値などが設定され、あの手この手の施策を通じてコメの生産性を高めることのみに心血を注いでいくのである。
 もちろん、コメの生産性が高まること自体は人々にとって悪いことではない。しかし、その結果失ったものにも私たちは注目すべきだろう。なぜ、コメだけに注目するのだろうか。じつは、この水田から得られるもののなかには、コメよりも高く売れる市場価値の高いものもある。近代化や生産性向上が必須だというのなら、コメだけでなく魚や虫や木の機能や「生産性」も高める方向に、技術や知識を発展させようとしないのはなぜだろうか。
 私たちは、おそらく多様性や関係性という考え方を、分析道具として、あるいは価値基準として、うまく使いこなせなくなってしまったのではないだろうか。だからこそ、せめて意識(とささやかな行動)の上では、さまざまな人・モノ・自然との関わりを大事にしていきたい。そのような関わりに価値を見出せるような評価軸を、自分のなかに備えておきたいと思っている。

文・写真:生方 史数(岡山大学)