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冷静な時間などない



新年あけましておめでとうございます。
あまりにも年末年始がぬるりとやってきて、知らぬ間に仕事が始まりそうになっているのだから追いついていけない。これが老いですか。そうですか。。。


↓昨年の年始所感


自分とは思えないくらい整った言葉を並べていてびっくりする。
今年もほぼ同じようなことを思っていたが、もっと熱烈で、暴力的な言葉が頭を巡っていた。進化していない。どちらかといえば退化している。


モヤモヤをうまく言語化できない頭で、リンガーハットの野菜モリモリみたいな名前のちゃんぽんを啜っていた。
前回は皿うどん?的なものを頼んで、普通のにしたらよかったと思った。けど、野菜モリモリの言葉に惹かれて、また後悔した。私が食べたいのは大量のアチアチの野菜ではなく、麺だった。オリジナルを頼めばいいのにいつも変化球を頼んで後悔している。
ふと「冷静になって考えよ」という言葉が飛んできた。どこから?天から。直脳(直接脳に)で。

でも、私が冷静だったことなど、ない。

いつも私は一喜一憂するたびに感情をそのままに出しているし、隠せないし、大体のことが声に出ている。(バカだと思われる行為)(これのせいで舐められている)

冷静に考えれば。みたいな反省会があるが、そんな枕詞をつけて考えたことがない。分析することはあるが、冷静かと言われるとそうでもない。
怒りの理由を紐解く時、誰かの行為の理由を推測する時、揉め事の渦中にいる時。
大抵私は冷静ではない。冷静ってなんなんだろう。

冷や、で、静か。ふ〜ん。。。

それに価値がある時もありましょうな。それくらいです。冷静に憧れがあるわけでもないが、冷静になったことがないな、という、所感。

やっぱり2023年の始まりより退化してますね。それとも2023年の私が偉そうな文章を書いていただけなのか。


孤独、ないし自由というのは、私を豊かにし、潤し、解放するものだった。

ここで過ごす数日間で得た温度を、また数ヶ月かけて薄く伸ばして生きていく。

私は孤独になることで、また両親に感謝し、帰りたいと思い、あたたかい暮らしに感動を覚える。
両親はたまに帰ってくる私に、持て余した庇護欲を精一杯降り注ぐことで満足感を得るだろう。

めっちゃ偉そう。〜だろう。じゃねーよバカ


せっかくあるマナーも、そこの暮らしに馴染んでないならいくら守ったって異端だな、と思った。イタリアではナフキン?あの、、膝に置くやつをクシャクシャにして去るのが「おいしかったよ」の意味を持つと聞いて、できる限りそうしているが、日本人はどうもそれを畳たがるし、良いと思ってる人が多い。
クシャクシャにするたびに😂であり😒であり🙂のような、なんとも嫌な気持ちになる反応をされることが多い。
やってられない。




一気に「被災地の人」になった。

幸い親族にも、知り合いにも重大な被害者はいないし、実家は無事だが、断続的に揺れる事実は耐え難いものがある。

最初に大きく揺れた時は商業施設にいた。スマホには後数秒で揺れます、と出ていた。そんなこと言われたってどうしたらいいんだと思ったし、まさか大きく揺れるとは思っていなかった。
正直、あ、こんなに揺れるんだ、と思った。
天窓から指す光で、舞う埃がキラキラしていて、あー、電気落ちたらやばいじゃん、と思いながら外に出た。
そこにいた人たち全員のスマホから警報が鳴って大合唱みたいだった。緊急地震速報です。同じ音声なのにハモって聞こえる。変な感覚。

「新年にこんなこと起きることあるんだ」と言ってる人がいた。気持ちはわからんでもないが、どんな時でもいろんなことが起きる可能性はあるだろう。誕生日に突然死ぬことも、結婚記念日に交通事故に遭うことも、入社日に倒産することも無くはない。

生きていることは奇跡の連続。

実家の海抜が低いから、とりあえず高台に移動して、時が経つのを待った。車で待って約5時間後に、とりあえず私の借家に移動することにした。全部とりあえずである。

なんてったって待つしかない。災害って始まりも急だし、終わるよー!なんてお知らせもないから、各自で終わりを待つしかない。

今、なんとなく一旦はピークを過ぎた、と言う気持ちでいるけど、本当はまだサビ前なのかもしれない。被災地の人ってこんな気持ちだったんだ、と思った。

徐々に速報に慣れつつある。ああまた来るのね、と。この慣れが命を落とす要因になるのだろうなと思いながら通知を消す。

しいたけ占い的には、今年上半期は勝ちなんだけど。まだ命落としたくないんだけど。

奇跡的に今日も生きているし、明日からも奇跡が起き続けると信じて、正月休みの実家で過ごす倦怠感を今のうちにたくさん味わっておこうと思う。


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