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女は女ではない

※これは、2021年9月25日に行われたジュディス・バトラー勉強会『女は女ではない』のために書いた短い論文です

女は女である。なぜなら女性器が「あり」、男性器が「ない」からだ。男は男である。なぜなら、男性器が「あり」、女性器が「ない」からだ。
この「ある」と「ない」を巡る命題。フェミニズム論者の怒りを常に掻き立て、ジェンダー/セックス論が打倒すべき二元論の旗印となっている一般的な存在論は、どのようにして己の妥当性を確かなものとしているのか(※1)。
「ある」は当然、同一性の定立に関わっており、「ない」もまたその裏側で同じようそれに関わっている。同一性(=「○○は○○である」)とは、この「ある」と「ない」による「ピーカブーの存在論」を基盤として持つ認識の形式である。なぜこれを「ピーカーブーの存在論」と呼ぶか。
存在はそれに介入する無を必要とする。なぜなら、「何かがある」と言われるとき、その異化=分化された「何か」とは、それが「ない」ことによって初めて想像的なものとして物質性と分離され、それが目の前に「ない」ときにも、その同一性が保たれるものになるからである。わたしたちが目の前にないリンゴを思い浮かべることができるのはそれが「ない」からであり、それは目の前にリンゴが「ある」ときでも変わらない。目の前のリンゴは、その即自性を「ない」の介入によって失い、対自的な「ある」となってわたしたちの前に「ある」ようになる。サルトルが論じた存在の間に挿入される「無」とは形而上学ではなく、実際にそれが「ない」という経験を重ねることによって、記憶/意識の中に実在する(=「ある」)のだ。したがって、一般的に存在とは「ピーカーブー」(※2)なのである。
この「ピーカーブーの存在論」、存在と無による同一性の練り上げを基礎に持つ認識の形式によって、欠如と二項対立を前提とする幻影的な主体(男と女)は構成される。
ところで、「意識は記憶の痕跡の代わりに発生する」というフロイトの命題は、まさにこの幻影の発生のメカニズムについて語っているのである。なぜなら、記憶の痕跡は、想起を行うときを別にして、人間の意識に直接現れることはないと考えられているからだ。

「意識化される行為と、記憶の痕跡を残す作用が、同じシステムの中に共存することはできないと考えたくなる。すると、意識システムにおいては興奮プロセスが意識化されるが、持続的な痕跡は残さないと考えられる。興奮がその隣にあるシステムに伝達されると、記憶のもとになる興奮プロセスのすべての痕跡は、隣のシステムに残されるのではないだろうか」(※3)

しかし、記憶の代替物としての「意識」は、いかにしてその代役を務めるのか。意識から引き離された記憶の痕跡は、その持続性をどこに保管しているのか。フロイトの採用したモデルでは、記憶は意識から排除され、「失われた時」となるばかりではないか(※4)。意識とは、存在とは、それ以外のやり方で考えることができないものなのだろうか。
フロイトによれば、精神の内部/外部の境界に位置する「意識」は、自我と超自我による抑圧的な審級によって、その同一性を連続したものとして統一している。それでは、意識から排除され、「隣のシステム」に移された興奮/記憶は、単にこの審級を逃れたときだけに意識化される囚人/脱獄者のようなものなのだろうか。わたしたちは、常に目を開いたままで、現在と現実の囚われ人でなければならないのだろうか。わたしたちに許された自由は、眠っているときだけの束の間のものでしかないのだろうか。
フロイトは、ここで意識を二段階に分け、一次過程を無意識系(「自由で流動的であり、放出されることを求める神経プロセス」)、二次過程を前意識-意識系(「拘束された(または強直性の)備給と同一である」「この拘束がうまくゆかないと、外傷神経症に似た障害を引き起こすことになる」)とした。二次課程は、精神が外部と接触する表明的な部分に位置し、それに対し、一次過程は精神の内部=無意識に位置するとされる。
ここでフロイトは、脳解剖学の概念に依拠しながら、後の思想家たちにとって非常に重要な指摘を行なっている。

「刺激を受容する皮膜層は、内部から訪れる興奮に対しては〈刺激保護〉を備えていないために、こうした刺激の伝達が経済論的に重要な意味を持つようになり、外傷神経性のような経済論的な撹乱の機縁となるに違いない」

ここでの「撹乱」は明らかに積極的な意味では使われていない。精神の安定した統一性を指向するフロイトにとって、「内部からの興奮」は、常にリスクのあるものとして捉えられている。しかし、20世紀後半のフェミニズム/ジェンダー/アナキズム論者たちにとって、「撹乱」は一つの大きなテーマとなる(※5)。撹乱、混乱、挑発、分裂などは、彼らにとって「自由」に至るための道のようなものとして捉えられることになったのである。
しかし、「内部から訪れる興奮」とは、実際のところ何なのか。それはフロイトの考えるような純粋な「有機体の欲動」なのだろうか。
ここで、フロイトが解決を試みているのは、「反復強迫(※6)」と呼ばれる症状がどのようにして引き起こされるのか、という問題である。発展と変化を求める生命の欲動を考察の基盤とする精神分析学には、一見保守的とも思える「反復」への欲動は、非常に特殊なものとして映ったようだ。実際、この多くの(あるいはすべての)人間に見られる「反復への性向」は、フロイトを多いに悩ませたようである。彼は、これを説明するために、人間の反復に対する原初的な欲動である「死の欲動」という概念を作り出す。これは二次過程にしたがうことのできない反復への欲動を、人間が原初的な状態=生命の誕生以前に戻ろうとする欲動として説明しようとしたものである。精神と外界を対立させるような考え方(人間が対象を捉える際の志向性を、自身の内部を外部に置換する投影によって説明するような精神の運動によって説明しようとするような考え方)では、人間の反復への欲動を説明するのに困難がある。「ある」ことと「ない」こと、「存在」と「無」、「生」と「死」、「男」と「女」。このようなピーカーブーの存在論、すなわち意識の統一性/同一性モデルを用いて思考することには限界がある。この思考モデルにおいて、「ある」は「ない」によって賄われ、意識下において明滅するばかりなのだ。果たして、困難にぶつかるたびに二つに分裂するこのような論法に終わりはあるのだろうか。
フロイトをはじめとする、この種の言説から少し離れよう。
リュス・イリガライは、「女」という語を比喩的に使いながら、語気を強めて主体の別の「あり」方を語る。彼女にとってなぜ「女」が比喩なのかと言えば、「女」という二項対立的な概念が必然的に「男」という概念を指し示しており、それが彼女の指向する分散型の主体性と矛盾するからだ。彼女にとって、「女らしさ」とは、意識の持つ分裂/分散性を、あるいは生来の混乱と撹乱を表し、「男らしさ」とは、その生来の統一/同一性への指向を表している。

「西欧を支配するこの論理においては、視覚、形態識別、形態個別化などが優位におかれているが、これは、女のエロティシズムとは無縁である」
「女はひとつでもふたつでもない。厳密には女をひとつの人格として規定できないし、ふたつにさえできない。女はあらゆる適切な定義に逆らう。それに女には《固有》な名前もない。そして女性性器は、ひとつでないから、性器なしと見なされるのである」
「《彼女》は、自己の内部で無限に(不定形に)他者である。だから、おそらく気まぐれで、不可解で、落ち着きなく、移り気…だと言われるのだ。彼女の言語を想起するまでもなく、その言語の中では、《彼女》はあらゆる意味〈方向〉に向かうので、《彼》にはどんな意味の一貫性も見つけられない。理性の論理にとっては少々狂気じみた矛盾した言葉、既成の解読格子や予め準備したコードによって聴くものには聴取不可能な言葉。なぜなら、発話の間もーー少なくとも勇気があればーー絶えず自己に触れつづけているからである」(※7)

気まぐれで不可解で移り気。まるで中学生の読む性格診断の本に書かれているような記述だが、それこそが男根ロゴス中心主義に対抗する「女」の性だとイリガライは主張する。イリガライの「女」像は、まるでフロイトの記述した「無意識」の性質が、剥き出しになっているような印象を与える。「女」はひとつではなく、常に複数であり、片時も一定不変のものではない。イリガライは「ある/ない」の二項対立を、同一性を解体し、男根ロゴス中心主義を打倒する道を、存在の複数性を解放する「女」の性に求めている。
しかし、彼女の言う「絶えず自己に触れつづけている」とはどういうことか。そのために必要とされる女の「勇気」とは何なのか。
彼女の論説はあくまでも一般的な存在論にとどまっており、「一」を「多」に分解する際にも同様の様式に従っている。つまり、存在を捉えるのは我々の志向性によるものであり、自身の内部を外部に置換する投影の働きによって存在を記述するようなやり方である。その捉え方に従うと、確かに「女」の性は、「気まぐれで不可解で移り気」だろう。しかし、その見方は、あくまでも「女」を彼女の言う「男」の視点から見ているものだ。存在をこのように捉えてしまうと、精神の二次過程に男根ロゴス中心主義=象徴界が支配の手を伸ばすのは容易なこととなる。なぜなら、どれほど拒絶をしたとしても、両者は同じ存在論をその基礎として持っているからだ。ここでわたしたちは言語の囚われ人となるのだが、もちろん比喩としての「女」が、比喩としての「男」を、同じ働きによって捕えることは可能だろう。しかし、そのようにすることは、単に比喩を逆さまにするだけなのである。改めて言うが、イリガライにとって「男/女」が比喩なのは、それをセックス/ジェンダーから切り離し、自由に移動できるものとして捉え直したからであり、それによって比喩としての「女」が比喩としての「男」を撹乱することを可能にしようとしたからである。
このような指向が、バトラーの『ジェンダー・トラブル』に大きな着想を与えたことは想像に難くない。バトラーはさらに、(フロイトの言うような)「有機体の欲動」を、法による生産物であることを指摘するフーコー(※8)の視点を取り入れることにより、彼女の考える「撹乱」の輪郭をよりはっきりとしたものにした。

「ジェンダーは、政治的に強化される巧妙なパフォーマティヴィティの結果であるが、分裂や、自己諷刺や、自己批判や、「自然」の誇張表現に向かって開かれている「行為」でもあり、まさにその誇張によって、ジェンダーがもともと幻影でしかないことを明らかにしていくものである」
「アイデンティティを結果ーー生産され、産出されるものーーとみなす再概念化は、アイデンティティのカテゴリーを基盤的で固定的と捉える位置によって巧妙に排除されていた「行為体」の可能性を、開いていくのである」(※9)

バトラーは、フーコーから受け継いた存在に対する疑義を極限まで押し進めたように思える。言語と対象、シニフィアンとシニフィエの間には隙間があり、空間がある。それは、どれほどしっかりと嵌め込まれているように見えても、やはり同じもの(=〇〇は〇〇である)ではないのだ。したがって、アイデンティティ(=同一性)は常に暫定的なものにとどまり、それはパフォーマティヴィティによって分裂し、解体され、変化をともなって再構成/再概念化されるべきものとしてわたしたちに提示されている。
しかし、再概念化されたアイデンティティは、問題もまた同じように含み込んで再構成してしまう。たしかに、バトラーは性差に関する生物学的な枠組み(「ある/ない」の問題)を解体し、再設定することに成功したかに思える。しかし、その代替案として、「ある」と「ない」の関係の中で、抑圧され、隠蔽された「ある」を明るみに出してその数を増やしても、根本的な解決は得られないのではないだろうか。わたしたちは、そうやって再構成/再概念化されたものをまた攪乱し、あるいは攪乱され、同じように繰り返していくしかないのだろうか。ここでも、やはりバトラーは「ピーカーブーの存在論」に回帰することによって、同じ問題に立ち返らざるを得ない道を歩んでいるように思える。
ところで、存在について非常にユニークな(しかし、とても説得力のある)いくつかの論文を著したジル・ドゥルーズ(※10)は、著書『ベルクソニズム』でベルクソンの哲学を解釈しながら、「ある/ない」についての一般的な見方をずらし得る観点を提示している。それをヒントにして、これまでの問題の解決を探ってみよう。
彼によれば、ベルクソンはこう主張している。哲学/存在論における伝統的な問い「なぜ何かがあって無ではないのか」を問うとき、わたしたちは「より多いものをより少ないものととり違えている」と。「あたかも非存在が存在よりも先に実在し、(中略)可能性が実在よりも先に存在するかのようなふりをしている」。「あたかも存在が無を充たしにやってくるのであり、(中略)実在が最初の可能性を実現しにやって来るとでもいうように」。ドゥルーズが言うには、ベルクソンは「非存在の観念のなかには存在の観念よりも、(中略)可能のなかには実在よりも「より少ない」のではなく、「より多い」ものが存在する」と主張している。これはどういうことか。
ドゥルーズはベルクソン倣ってこういった事柄を「偽の問題」と呼ぶ。「このテーマはベルクソンの哲学において本質的なものである」とドゥルーズは言う。

「非存在の観念の中には、実際のところ、存在の概念が含まれているし、ついで全否定の操作があればあるほどこうした操作に特有の心理的動機があることになる(ある存在がわれわれの期待にそぐわず、それをたんなる欠落として、われわれの関心をひくものの不在とのみとらえるとき)。無秩序の観念には、すでに秩序の観念があるが、その否定があると、否定の動機が加わることになる(このとき、われわれは期待していたものではない秩序に出会う)。可能の観念には、実在の観念におけるよりも、より多いものが存在する。「というのも、可能的なものとは、いちど実在が生みだされるとそのイマージュを過去に投げ返そうとする精神の働き」であり、こうした行為の動機にほかならないからである」(※11)

存在が、わたしたちの期待にそぐわないこと。「ある」はずのものが「ない」こと。それは、存在/主体に対する重要な錯覚(※12)を引き起こす。それをベルクソン/ドゥルーズは、「真なるものの回顧的運動」と呼ぶ。すなわち、「存在、秩序、実在それ自体のイマージュが、もっとも原初に存在すると考えられる可能性、無秩序、非存在のなかに回顧的に投影される」のである。それは、「ある」が逆側から原初的なものとしての「ない」を想像することであり、自らの基盤とするための己の対照物を自ら創作することである。わたしたちは、あたかも理性的な存在者である「わたし」が、それに先立つ「非理性」から生まれたという物語を創作し、赤子を観察しながら、「自分も昔はこうだったのだ」と考えるのである。
しかし、ベルクソン/ドゥルーズの観点(※13)では、「ある」よりも先に「ない」が「ある」などということはあり得ない。なぜなら、初めから何もないのであれば、「ある」も「ない」も「ない」からだ。「ない」は「ある」につけ加わる形で構成されるがゆえに「より多い」のである。ここで論じられているのは「ないの実在性」のごときものだが、しかし、これは決して逆説的な意味で言われているのではない。このように考えることは、単に「ある/ない」の関係を逆さまにすることではない。「ある」と「ない」は対立するものではなく、同じ一つの持続(※14)の上に折り重なり、巻き込み、巻き込まれているものである。これは、記憶の問題であり、時間の問題なのだ。

「潜在的なものは、潜在的なものである限りで実在性を持つことをわれわれは知っている。宇宙全体に広がっているこの実在性は、弛緩と収縮とのあらゆる共存する程度のなかに存している。それは巨大な記憶、宇宙的な円錐であり、そこでは、すべてが近接する水準の差異を保ちながら、自己とともに共存している」(※15)

ドゥルーズは別のところで「持続とは本質的に記憶であり、意識であり、自由である」(※16)と語っている。この命題において、先程われわれが挫折した問題ーー「意識と記憶は区別される」、「それゆえ、記憶は意識によって排除され、囚われの身となる」の二つが一気に解決されているように思える。
ここで改めて問題とされるのが、フロイトが病気と断定して分析した「反復脅迫」の症状=死の欲動である。
意識とは、反復そのものであることによって、記憶のシステムと共存している。というよりも、一体化している。意識とは記憶の顕現であり、過去の反復である。フロイトは、反復を病として、二次過程に従うことのできないものとして、囚われの記憶が意識に反して顕現してしまった無意識からの脱獄犯として捉えていた。それゆえ、フロイトは反復の運動の恒常性に戸惑い、結果「生の欲動」の対立物である「死の欲動」を考えざるを得なくなったのだ。
しかし、ここでの観点では、反復を「生の欲動」に反するものと考える必要はない(※17)。
すべての「ない」は「ある」の反復であり、さらに、それを巻き込んで反復される「ある」は、「ない」の反復である。すべての存在は、反復によって己の実在性を賄っているのであって、「ある」と「ない」の対立によってではない。ベルクソン/ドゥルーズの観点から見れば、反復は病者特有のものではなく、すべての認識に必然的に要請されるものである。わたしたちは、持続によって記憶が現前=再活性化されること、そしてそれに新たなものがつけ加わることによってしか物事を認識することはできない。
持続とは決して途絶えることはないということであり、わたしの存在を知っているのはわたしだけだということである。そして反復とは、その持続の存在様式のことなのだ。

「瞬間の継起は、時間を作り上げはしない。それどころか、時間を壊してしまう。瞬間の継起は、時間が生まれようとしてはつねに流産してしまう点を示しているだけである。時間は、瞬間の反復に関わる根源的総合のうちでしか、構成されない。根源的総合は、互いに独立した継起的な諸瞬間を累積的に縮約してゆくのである。このようにして、根源的総合は、生きられた(体験された)現在を、あるいは生ける現在を構成する」(※18)

ここで、ベルクソン/ドゥルーズを参照しながら、わたしが語ろうとしているのは、対象と向かい合う一定不変の主体ではなく、対象を構成し、構成する時間そのものであるような主体である。この主体において、先の命題「女は女である」「男は男である」は意味をなさない。なぜなら、それは単に対象の分裂的な性格を表しているにすぎないからだ。では、「わたしは男である」はどうか。これは、ある一つの呟きとしてのみ意味を持つだろう。わたしが男であるのは、女ではないからではない。男性器があり、女性器がないからではない。わたしは男として、そのようなものとして、数々の時間を過ごしてきたのだ。わたしはわたしの母親と、兄弟と、友人と、恋人と、その他さまざまな場面で、男として過ごしてきたのである。だからわたしは、「わたしは男である」と呟くことができる。わたしと一緒に過ごしたわたしの恋人が、わたしを男であると、わたしがわたしのことをそのようなものとして見つめるのと同じように見つめている。そして、それは反復を求め、またずっと反復されてきたものでもある。それゆえに、「わたしは男である」。その呟きは、その一瞬の響きの中に消えていくだろう。それは幻影であった。しかし、それはそれ以外のすべての記憶、すべての過去を引き連れながら、新たな幻影との出会いのために反復されていくだろう。わたしは同じようにして、「わたしは何でもない」と、「わたしは人間でさえない」と呟くことができる。それは、わたしが過ごした時間ーー例えば、海や、山や、ビルや、走っていく電車をただ見つめて過ごした時間が、わたしにそう言わせるのである。


※1 打倒と妥当は同音異義である。この駄洒落をどうでもいいことと思わないでいただきたい。
※2 よく知られている通り、精神分析学において、「ピーカーブー」は主体/認識の生成に重要な役割を持つ。ジークムント・フロイト『快感原則の彼岸』を参照されたい。
※3 同じく、フロイト『快感原則の彼岸』参照。
※4 マルセル・プルースト『失われた時を求めて』 これに関しては、ドゥルーズの素晴らしい評論『プルーストとシーニュ』がある。
※5 とりわけ、ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』において、「撹乱Subversion」の持つ意味は非常に大きなものとして扱われている(因みに、この『快感原則の彼岸Jenseits des Lustprinzips』原典ではここで「撹乱」と訳されている語は、一般に「混乱」と訳されるStörungenである)。
※6 精神分析学の用語で、さまざまな動機によって同様のストレス状況を繰り返し体験する傾向をいう。
※7 リュス・イリガライ『ひとつではない女の性』それぞれ27頁、28頁、31頁
※8 『ジェンダー・トラブル』において、バトラーはまるでフーコーのそれ以外の著作を読んでいないのか、と思われる程に『性の歴史1 知への意志』を執拗に言及する。
※9 ジュディス・バトラー、竹村和子訳『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(青土社)257頁、258頁
※10 ジュディス・バトラーは、自身の論文『ジル・ドゥルーズーー奴隷道徳から生産的欲望へ』(『欲望の主体』(堀之内出版)所収)で、ドゥルーズの哲学を彼女なりに解釈しているが、『ニーチェと哲学』と『アンチオイディプス』を集中的に参照したこの論文は、かなり偏ったドゥルーズ像を提出しているにすぎないように思える。バトラーは、ドゥルーズのニーチェ読解における「差異の肯定」を一面的に捉えすぎているせいで、その時間/記憶との関係を読み取ることができていない。
※11 ジル・ドゥルーズ、檜垣立哉訳、小林卓也訳『ベルクソニズム』(法政大学出版局)8頁、9頁
※12 このような勘違いは、さまざまな局面で「ある」と「ない」の関係を逆さまにしてしまう。例えば、「障害がある」(正常な機能が「ない」)、「狂気である」(理性が「ない」)、「女である」(男性では「ない」)など。
※13 「観点」は、ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』の重要概念の一つ。
「あらゆる連合作用の鎖は、主体よりも高次の〈観点〉を優先して切断されるのである。しかし世界に対するこれらの諸観点、真の諸〈本質〉にしても、ある統一性や全体性を形成するわけではない。むしろ一つの宇宙はそれぞれの観点に対応し、他の観点と交通することがなく、天文学的世界の差異と同じくらい根本的な、還元不可能な差異を肯定するといえるだろう」(ジル・ドゥルーズ、宇野邦一訳『プルーストとシーニュ』法政大学出版局 216頁)
※14「持続」は、時間、記憶と密接に関わるベルクソンの重要概念である。持続は、上で挙げたような「ピーカーブーの存在論」では捉えることができない。ドゥルーズによるベルクソンからの引用を参照してみよう。「もし私が持続を分析しようとするならば、すなわち持続を既成の概念に分解しようとするならば、概念の分析や本性そのものから、持続一般にかんして二つの対立する視点をとらざるをえず、ついでそれらによって持続一般を再構成すると主張しなければならなくなる。この組み合わせは、程度の多様性も、形態の多彩さも提示することはできないだろう」(ジル・ドゥルーズ『ベルクソニズム』43頁)
※15 ジル・ドゥルーズ、檜垣立哉訳、小林卓也訳『ベルクソニズム』(法政大学出版局)112頁、113頁
※16 同上51頁
※17 ドゥルーズは代表的な自著『差異と反復』第二章「それ自身へ向かう反復」の中で、フロイト『快感原則の彼岸』を読解しながら、「死の欲動」と「反復」の関係について語っている。そのなかで、ドゥルーズは二次過程的なものを仮面/仮装として語りながら、反復の運動について説明している。
「死の本能は、けっしてエロスを補完するものでもエロスに敵対するものでもない。死の本能は、いかなる意味でもエロスと対称的になることはなく、むしろ或るまったく別の総合を証示しているのである」(ジル・ドゥルーズ、財津理訳『差異と反復』河出文庫 上巻300頁)
※18 同上199頁

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