テレビを見る
実家に帰ると、リビングのテレビがついている。
ニュース番組が流れている。
食事用のテーブルにつく。
洗面所でうがい手洗いをする。
母が何か言っているが聞き取れない。
女性アナウンサーが、恵方巻きのニュースを伝えている。
あるアンケートの結果で、節分に豆まきをする人が40数パーセント、恵方巻きを食べる人が50数パーセント、と報じられる。
「今や、節分と言えば、豆まきよりも恵方巻きなんですねー」とゲストがコメントする。わたしは、このデータが、誰を対象にどのような形式で得られたものかが報道されていない、ということに違和感を覚える。
「この番組は、事実を取材して伝えようとしているのか、それとも事実を操作して作っていこうとしているのか、どっちなのかねえ」と母に言うと、あからさまに嫌な顔をされる。
CMが流れる。
What's my name
Tell me, baby, what's my name
Tell me, sweetie, what's my name
1968年6月のロンドンで、ミックはハッスルしていた。ゴダールがカメラを回していた。良い曲が出来た。キースの下手糞なギターが、どんな名手のそれよりも素晴らしく響いた。
わたしたちが抱いている「身体」という概念は、精神によって発見されたものである。この「身体」という概念は、わたしたちの実際の身体とは別のものである。
フーコーが指摘する通り、「人間」という概念に、動物的な身体性が盛り込まれるようになったのは、近代になってからのことだ。精神が、自らの奴隷としての身体を発見したのだ。
わたしはドゥルーズ やガタリの言うような身体の話をしようというのではない。端的に言って、彼らは屍の観察者に過ぎない。わたしと同じように。
精神は、身体をどのようにして発見したのだろうか。破壊によって。死によって。
わたしたちは遡行的に生命を発見するが、それを実際に見ることは出来ない。生命の話をする人間は、幻の話をしている。それは空想の世界である。わたしたちは、死について語ることしか出来ない。なぜなら、わたしたちは死ぬことによってしか、何物も知覚することは出来ないからだ。
わたしは日々刻一刻と死んでいく。そこに欺瞞はない。淀みはない。わたしは生きてなどいない。そこに嘘がある。虚構がある。
死の裏側には、生命があるのかもしれない。しかし、それはわたしたちには分からない。
わたしたちは、豊かな精神と穴だらけの身体を抱えて立っている。
わたしは死んでいる。わたしは亡霊である。なぜなら、わたしは屍として語るからだ。
わたしたちの精神は、死が、生贄が、大好きである。なぜなら、精神とは死神の名前だからである。
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