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自らの欠けをなでる

エッセイって、なにかしらの欠けがあってそれを撫でるかのように書いてある。

あるエッセイ漫画をよんで、ふとそう思った。とても失礼なのかもしれないが、率直な感想である。

自分は、誰かのエッセイが好きだ。その人の生活や考えを覗いた気分になれる。なんとなく、繋がりを感じるのか、落ち着くのだ。先に出た、欠けを意識したことを書くのならば、誰かが欠けをいやすように書いた文章は間接的に自分の欠けも直してくれるような気がするのかもしれない。

エッセイを自分でも書いてみたいと思うことはあるけれど、うまく筆が乗らない。きっと、欠けの部分に目が行くからだろう。自分に欠けがないとは思わないけれど、自分の欠けは小さくて書く立場にないんじゃないかと心のどこかで思っている。
私は、結構恵まれてるし、満たされてる。穏やかな毎日のなかで生きている、つもりだ。
本当は傷ついていることも、怒っていることも、怖がっていることもある。それらに反応することは、エネルギーのいることで、欠けの全てに反応していると、身が持たなくなる。

時折、欠けが、崩れに変わって、全ての考え事の結論が「しにてー」になる。本当に命をたちたい訳じゃない。だから、この「しにてー」は思考停止なのだ。足りなくなったエネルギーをこれ以上枯渇させないように、死ぬ事でなんとか自分を保とうとしている。死んだら自分はいないのに。

最近、「しにてー」が多くて、そういう時期なのだ、疲れているのだと穏やかに諦めている。焦ったところで回復しないので、おいしいごはんを食べて、いっぱい寝て、生命活動を途切らす事のないように生きるだけだ。

私自身の性格として、本当は、爆発するような感情をもちあわせている。「しにてー」の原因を吹き飛ばすような言葉や行動力を持っている。けれど、それに身を任せてたら、私の心や周りの人が散り散りになりそうで怖い。いつだって私はセーブをかけている。セーブしなくなったら、恐らく私の周りにいた人は消えて、更地になるだろう。新しい芽が出るかも分からない。そんな恐ろしいことは今は出来ない。

でも、セーブしないでただひたすらに情熱をほとばしらせながら生きたらどうなるのだろうと考えることはある。おそらく中学生以降やっていない事だ。

こんなことを考えていると、結局「どっちでもいいか」に落ち着く。歩く爆弾魔になろうが、歩く森になろうが、どう生きようが私の道だ、と言い聞かせるように思考のループを切断する。

とりあえず、満たされて、幸せな毎日を過ごせるように、願わくば自分の周りの人達も幸せに生きられるように。小さな世界の一欠片として今日も生きていく。


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