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逢魔が時は秘密を抱えている【2015.02 中山連山】

逢魔が時までには下山をする。それが登山のセオリー。暗闇は足下の視界を悪くして転倒を促すし、登山道を見失う可能性を高める。したがって、逢魔が時までに下山するのは、登山ではセオリーとされ、また古来より言い伝えられている民間伝承の知恵でもある。

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逢魔が時は妖怪が動き出す時間とされ、人々の暗闇に対する恐怖が妖怪の姿となって具現化されたのだと想像される。恐怖や脅威、自然の神秘や暴威、そういう抽象的なものを、神話や儀礼などの文化的な装置を用いて、理解できるかたちに変えることは人間の得意とすることだ。とにかく、逢魔が時には気をつけなければならない。

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この日の私は昼過ぎに起床し、徐ろに布団から抜け出た。山に向かう時間ではまったくなかったのだが、いつでも万全のタイミングでしか山に登らなかったら、この先死ぬまで山に行くタイミングを逃し続けるに違いにない、そんなのは損だという強引な思考法で山に向かった。そもそも健全に朝起床していたら、こんなことにはならないので、当時の私はどうかしていたのだ。

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昼の2時半頃、阪急電車を乗り継いで中山連山の麓に到着する。すでに日は傾きかけていた。西の方面には、南向きの尾根が連続して連なっていたため、体感の日没が早い。下りてくる人はたくさんいるが、登る人がいない。乾いた尾根に、乾いた足跡が響く。日の光が横から射すようになってきた。

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頂上部まで駆け足で登ると、中山連山北部の山並みが目の前に広がっていた。登山用の地図のなかで取り上げられている山というのは、その地域に数ある山の中のほんの一部であり、本来これだけの山が裏で控えている。気の遠くなるほどの広がりが、自分の歩いた道程の小ささを気づかせると同時に、また次の山へと向かわせる好奇心を掻き立て、一歩を踏み出させる原動力となっている。

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いよいよ日が見えなくなってきた。光よりも影が増える。森は日中とは顔色が変わっていく。山の端は光り輝き、影が一層、光を際立ててくれる。それは神秘的な光景、緊張感のある美しい景色だった。人間の目は、日没の速度よりも暗闇になれるのが遅いため、この絶妙な速度の違いが、逢魔が時の影の濃さを生み、同時に光の輝きを際立たせているだろう。神様の設計図は、ここまで意図されてつくられてたものなのかと、自然の妙に感心する。

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逢魔が時は、暗闇の危険を避けるために仕立てられた概念だとは思うが、そんな畏れられる事物の中に、こんな光と影のトリックが隠されていたなんて、なかなかよくできた仕掛けだな、と勝手に感動した。それはそう、秘密を隠すなら、ほかの人が来ない場所、避ける場所に隠すのが一番だ。道から外れたところにこそ面白いものがある。すべては寝坊のおかげ。これほど有意義な寝坊は、後にも先にもきっとないのだろう。

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