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失われたかき氷を求めて

 
 野暮用のおかげというべきか、平日の午後、俺は秋葉原の昭和通り口の前に居た。用事も片付け、さてこの急に得られた半日休暇をどのように使おうかと熱風に茹でられながら考える。午後休みが決定した昨日の段階からそれを考えていたのなら、人生の宿題を切り崩すためのもう少し生産的なアクションを取れたのかもしれないが、そのような計画的な行動にこれまで成功した試しはなかった。

 サラリーマンの群れが観光客を圧倒している改札口の前で、取りあえずは労働からイチ抜けした優越感に浸っていたところ、柱に掲示されていた広告が目に映った。タリーズコーヒーのかき氷の宣伝だった。そういえば長いこと食べていないし、ついこの前に仕事の帰り道でも食べたいと思ったばかりだった。コンビニでは売っておらず、そのときは結局アイスクリームを食べて誤魔化したが。

 食べるか。そう思いはしたものの、タリーズへ行く気にはなれなかった。味のレパートリーが問題だった。ストロベリー、ほうじ茶ラテ、宇治抹茶。練乳とアイスクリームが乗っている。悪くはないのだが、そういうのを食べたい気分ではなかった。メロンとかブルーハワイだ。

 周囲の喫茶店やファミレスのメニューをGoogleマップなどで調べた。しかしどこも、マンゴーだのフルーツソースだのクラフトコーラだの、なんとも手の込んでいる味(いやきっとフレーバーとかと呼ばれているのだろう)ばかり。違う、そういうのじゃない。もっとあの、作り物っぽくてなんの工夫もなく甘ったるくて、目を瞑ったら同じ味と馬鹿にされるような、あの味でいいのに。ラーメン二郎が一杯食えるような値段のメニューを閉じて嘆息する。今時、祭りの屋台を除いてあのような付加価値の低いかき氷は流行らないということなのだろうか。それともこの俺が、ラーメンにおける中華そば原理主義者のような「こういうのでいいんだよ」を連呼する懐古厨に堕してしまったとでもいうのだろうか。

 探しに探して、ようやくあの、祭りの屋台で見るような紙カップでかき氷を提供している店を見つけた。喜んだのも束の間、駅から十五分近く歩く必要がある場所にあった。気温は33度。これでも最近ではちょっと涼しい方なのだから泣けてくる。だが、背に腹は変えられない。

 首都高の高架下を抜けて、台東区寄りの秋葉原を東へ東へ向かっていく。Googleマップが示すルートは大通りへと俺を導こうとしていたが、影もなく光に無惨に焼かれている一本道を見てげんなりして、雑居ビルが群生する小路の方へと足を進めた。全くランダムな気持ちで踏み入れたそこには、しかし俺が見知っている世界と同じような、それでいて見たことのない店や会社があって、人が居た。こんな気まぐれを起こさなければ一生出会うことのなかったであろう事物。最新の物理学の理論では、世界は時空間の四次元よりもっと多い次元、10だとか11次元でできているとされ、5次元以上の高次元は目に見えないほど小さい世界に折りたたまれて格納されているのだという。しかしその微視的な世界に技術あるいは想像力を駆使して目を凝らすまでもなく、世界は俺が普段見ていない場所に隠れて丸まっている。そして、こうして足を踏み入れる意思さえあれば、そのディテールを悠々とした仕草で眼前に展開してくれるんだろう。

 日陰を作ってくれていたビル林も途切れる時が来た。大通りと合流する交差点で、ふと、古い木製家具の匂いがした。その途端に昔地元にあった大きな家具屋に家族で訪れた時の記憶が蘇り、面白いほど軽薄に俺はノスタルジックな気持ちになった。

 実はそれこそが俺がメロン味のかき氷に求めていたものだった。香りが記憶を喚起する、その神秘的なまでに強力な作用。それを味わいたくてここ最近俺はもがいていた。つい先月に実に十年ぶりにプールに入ったのもその為だった。しかし俺が行った区民プールは恐ろしいまでに塩素の匂いが全くしなかった。逆に清潔なのか不安になるほどだった。それはきっと体験と衛生面のバランスを極めた研究成果の結晶なのだろうが、しかし全くあの頃、小学校のプール学習や部活仲間といった市民プールの記憶が呼び起こされないことに、塩素の匂いこそがカギだったのだということを思い知り、残念な気持ちでいっぱいだった。

 香りだとか味が記憶を呼び起こす、といえばプルーストの「失われた時を求めて」という小説がよくリファレンスされるだろう。マドレーヌを食べたら記憶が過去に飛ばされる話、という雑な紹介だけ知っている状態が長く続いていたが、この前勇気を出して図書館で手を出していた。しかししばらく読み進めてもなんだかよく分からない場面の説明が延々と続き音を上げそうになる。マドレーヌまで我慢、マドレーヌまで我慢、マドレーヌまで我慢。それを合言葉にめくり続けて、ふと次の文章に行き当たった。

「けれども、いつか人々が死んで、かたちあるものは壊れ、古い過去が何ひとつ残らなくなると、においと味だけは、こんなにももろく、かたちなんてないのに、いや、ないからこそ、変わることなくしぶとく魂のように残る。ほかのすべてが廃墟となっても、忘れられることなく、待ちわび、期待し、ほとんど触れることのできないそのちいさな滴の上に、記憶という巨大な建築を、たわませることなく支えているのだ。」

 それまでの具体的なのか抽象的なのかわからないような文章の中に突然現れたそれが、突如真理を一突きしていた。少なくとも俺にはそう思えた。なんとなくプルーストには偏見があった。西村賢太の「苦役列車」が朝吹真理子の「きことわ」と芥川賞を同時受賞した時、選評で石原慎太郎が西村健太を絶賛する一方で、きことわを「プルーストが苦手な私にはいささか冗漫」と評していた。苦役列車にどハマりした一方できことわを数ページで挫折してしまった俺はそうして逆算的にプルーストにも偏見を持って臨んでいたし、実際それは途中まで確度を増していく一方であったが、その一文は俺が匂いと味に感じて期待していた神秘性を美しく集約している文章に思えて、半ば動揺しながら感じ入った。それでもう満足してその本は閉じた。世界一長いという割には、まあ分厚いがこの程度なのかと思いながら。あとでそれが縮約版、つまり原作の要約バージョンであるということを知り、実際にはその10倍程度の分量があることを知るのだが。

 やがて蔵前橋通りと並行に走る、小さな商店街のような通りに入った。「おかず横丁」という看板が立つ。人気(ひとけ)はその時少なく、どこか寂寞感がその時は強く漂っていた。時間帯が異なれば、また異なった様相を見せてくれるんだろうか。その通りをもう少し東に進んだところに目的地、「港家」はあった。

 店の前では自転車の傍で家族が並んでかき氷を食べている。店内に入ると小さな椅子にカップルが並んでいた。「フレーバー」と呼ぶのが相応しい品が多く並ぶメニューの中に、それでも確かに我らが「メロン」があることを確認し安心するが、価格が200円であることには驚いた。傍から出てきたシロップが、フルーツ由来のソースなどではなくあのおどろおどろしい緑の原液シロップであるのを見てテンションが上がる。わかっている。ここまで汗をかいて来ずとも、その味はコンビニで売ってるメロンソーダ味のジュースの味と一緒なのだ。しかしそれでも、俺はかき氷で食べたかった。

 かき氷が作られ始めた。まじまじと見守る。まずカップの中にシロップが注がれるところから驚かされた。そこに氷が降り注いでいき、小山になったところで取り出され、シロップが上から注がれる。常温の雫が氷を溶かし、山が縮んでいく。南極の氷床が溶けていく映像を思い出した。

 さてさてと受け取る準備をしたが、なんとそこから再びかき氷機にカップは移され、さらに氷が盛られていく。しかもその氷が少し盛り上がると、きゅっと上から軽く押して、さらに氷を乗せる、ということを何度も繰り返してくれる。そうしたことを数度繰り返し、最後にできた山に再びシロップが注がれる。中身が詰まったのだろう、今度は、山は溶けてえぐれることはなく、緑にその体を染めたまま屹立していた。俺はその霊峰を恭しく受け取って、少し考えた末カップルのいる店内を出て、家族連れの横で食べ始めた。

 一口した瞬間、それは期待していたレトロスペクティブな感動をもたらしてくれたが、しかし同時にこれまでにないほど新鮮であった。繊細で、柔らかな氷の粉。雪のような、と喩えたくもなるが、関東で降るベタついた雪なんかよりも何倍もさらさらとしている。口の中でふわりと溶ける感覚は綿飴に近いかもしれない。それにあんなにきゅっきゅと押せば、祭り屋台で買うようなかき氷などすぐさまガリガリくんのような硬さとなってしまうのに、このかき氷はどこまで掘り進めても柔らかな構造を保ったままだった。この氷でなら、宇治抹茶だとかマンゴーなどの味、いやフレーバーでだって楽しみたい、とさえ思ってしまう。

 氷それ自体への感動ばかりを書いたが、しかし待望していたメロン味への感動もまたひとしおだった。やはりメロンソーダを飲むのとは違う。悪ふざけなくらいに濃い味は、大昔に実家で、ドラえもんのかき氷機を使って作ったかき氷に、瓶入りのシロップを好き放題掛けて食べていた頃を生々しく思い出させてくれた。口に入れた氷がさっと溶け、揮発し、甘い化学っぽい味が一杯に広がる。200円で得られる贅沢として、これを超える体験はないだろう。ここまで来てよかった。

「うわ、舌すごい黄色!」

 背中で家族のお父さんが、そう笑っている。きっと子供がレモン味のかき氷を食べたのだろう。お母さんやその兄弟も同じように笑っている。それとも今の時代、この人間の構成を見て「家族」で「父」で「母」で「子」という構成を見出すことも、もしかすると危ういのだろうか。

 家族が自転車に乗って去ってからも、一人かき氷を食べすすめた。いい氷使っているせいか、頭が痛くならない。そう余裕をこいて一気にかき込んだら、流石にキーンとなった。しかし最近は冷たいものを食べても頭より先に歯が痛くなって気持ちが萎えるような事ばかりだったので、この頭が痛くなる感覚すらも小学生の頃を思い出せて嬉しくなった。

 食べ終わったカップを店内に捨てた。店内にはいつの間にか別のカップルが居た。人と一緒にシェアする幸せ。そういえば小さい頃に食べたかき氷も、祭りの屋台にしろ実家にしろ、家族と一緒に食べていたのだった。

 店の外に出ると、ほのかにおかずの匂いがした。日差しはまだ強いが、これから帰りの十五分だ。行きは良い良い、帰りは怖い。一人で過ごす予定というのは往々にしてそういうものだ。スマホのカメラで自分の舌の色を確かめた。見せる相手も居ない緑色に染まった舌を、パチリと撮った。

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