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13歳が見た大人の世界

いつもお読みくださってる皆様には心から御礼を申し上げます。

さて、風邪のため金曜日からとにかく布団の中で横になっており、寝過ぎてるせいで今朝も早くから目が覚めてしまった。

カーテンを開けずとも、ベランダ側からは雨が手すりを打つ音が聞こえる。

「春に3日の晴れ間なし」と昔の人は言ったものだが、それにしても今年は多い気がする。

雨が降ると少し暗鬱な気分が芽生えるのは、やはり太陽光が届かない事でセロトニン(幸せホルモン)が分泌されにくくなるからかもな…とぼんやり考える。

ビタミンDと太陽光はメンタルヘルスの維持に必要不可欠な要素だから、とにかく魚を摂るしかない。

干したキノコ類には含まれるが、それ以外の野菜や肉にはほとんど含まれないので気を配りたいものだ。

雨で思い出す事

雨の日によく思い出すのは、初めて自分でお金を稼いだ頃の事だ。

私は中学1年生の春(入学してすぐ)に新聞配達を始めた。今の時代では恐らくあり得ないのだろうが、当時は全然問題なく雇用される時代だった。

我が家はお世辞にも裕福とは言えない家庭であったし、両親(とりわけ母親)が苦労しているのは子供ながらに痛感していた。

当然、ゲームにせよ服にせよ、周りが持っていれば欲しくなるが親に申し訳なくて「欲しい」とは言い出せなかったのだが、かと言って諦めると言う選択肢も私の中にはなかった。

「中学生になったらアルバイトできる」

これが私にとってとても大きな喜びだった。

某全国紙や広島ローカルの新聞店が通学路にあったのだが基本的にいつも「配達員募集」と貼り紙が貼られており、中学生になって新聞を配る自分を想像してワクワクしていた。

中学に入学して早々に親に許可を貰って全国紙の方の販売店に伺って早速新聞配達のバイトをすることになった。

ローカル紙を選ばなかったのは単純に配る部数が多すぎて不安だったからだ。

広島では圧倒的にローカル紙を購読する世帯が多い。8〜9割はローカル紙だと思う。

私が選んだ全国紙は特に広島では購読者が少なかった(これは恐らくその新聞社の関連球団が広島では敵対関係だったからだと思う)。

私が任された部数は80部ほどで、かなり広い範囲を配る事になった。

まさにこんな感じ

毎朝4時過ぎに起床し、4時半に新聞店に到着。すぐに自転車に新聞を載せて配達を始める。

春の4時半は、まだ夜の匂いが漂っていて何となくいけないことをしてるような、大人の世界を垣間見ているような不思議な気分だった。

新聞店のインクの匂いと夜の匂い。

今でも似た匂いを嗅ぐと当時の不思議な気持ちがふわっと蘇る。

10件 20件と配っていると何処かから味噌汁の匂いがしたりコーヒーの匂いがしたりし始める。

だいたい毎朝同じ時間に同じ場所で同じ匂いがするのは少し面白かった。どんな人が住んでるんだろう?そんな想像を膨らませていた。

新聞を粗方配り終える頃、東の空が明るんで来て夜は西の彼方に消えていく。

朝日はとても気持ち良いのだが、自分だけの宵の世界が消えていくのは少し寂しい気持ちにもなった。


もちろん新聞配達は雨の日が辛い。

雨ガッパを着て配るのだが、新聞は濡れるし身体は冷えるし本当に嫌だった。

自転車を停めるにしても、地面が土の場所(当時は路地が舗装されてない場所が多かった)は自転車のスタンドが新聞の重さで地面にめり込んだりして、よく自転車が倒れたりした。

朝起きた時に雨だった日は、新聞配達に行くのが本当に嫌だったのを覚えている。

初めてバイト代をもらった日は本当に嬉しかった。

当時で確か三万か三万五千円かそのくらい。

中学生の自分からすると、途方もない大金であった。雨の日の辛さも吹き飛ぶくらい嬉しかった。

その金を一体何に使ったのか、全く思い出せないのだが中学の頃から親に「買って欲しい」とお願いした事がないので、ゲームや本や服に消えていっていたのだと思う。

結局アルバイトは中学一年生の春を皮切りに、バイト先をあれこれ変えながらも社会人になるまでずっと続けた。

お陰で免許取得や大学進学で親に負担をかけずに済んだのは、我ながら頑張ったなと思う。

最近は新聞社の発行部数もずいぶん減って、新聞配達をする人もなかなか見かける事がなくなったが、当時の私のように新聞を配っている中学生はいるのだろうか。

雨の朝にはこうして時々、初めて仕事でお金を稼いだ日々のことを思い出す。

最後に、雨の日によく聴く60年代の名曲をどうぞ。

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