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映画『 A GHOST STORY』いかにもありふれた幽霊の姿が意味するのは?

DVDを買おうか迷っていたら、『A GHOST STORY』がアマゾンプライムビデオに入っていて狂喜。さっそく観た。
このデヴィッド・ロウリー監督を私は贔屓にしている。『グリーン・ナイト』以外は観た。新作の『ピター・パン&ウェンディ』も、ピーター・パンじたいにはまったく興味がないけど観るつもりだ。

さて、デヴィッド・ロウリーの映画といえば静謐で明暗が繊細に移り変わる映像が魅力的だが、この幽霊譚はストーリーもいろいろと考えさせられた。

一見するとわかりづらいストーリーかもしれない。でも2回観て意味するところが氷解した。


「喪失の物語」としての側面

まず設定を簡単にご紹介したい。
ルーニー・マーラ演じる女性Cが、ケイシー・アフレック演じる恋人あるいは夫のMをある時事故で失ってしまう。
彼女は深い悲しみに暮れ、ひとり涙を流す。

お隣さんが持ってきてくれたパイを彼女がフォークでひたすら食べるかなり長いシーンがとても印象的だ。観ながら、NGを出したら大変なことになるのではと余計な心配までしてしまったほどだ。
この過食のシーンは、自傷行為として観るものの目に映る。彼女はさんざんパイを胃に詰め込んだあと、トイレに走って吐く。
それほどの喪失感なのかと、こちらはちょっと痛々しい思いになり、顔を背けたくなった。

一方、死んで遺体となって病院に横たわるMはどうなったか。
ひたすら彼の全身を包む真っ白なシーツを映すこれも長々としたショットがつづく。彼の死を噛み締めるようなショットだ。
しかし突然、なんとシーツが動き出し、勢いよく持ち上がる。
”それ”はベッドから下りて病院をさ迷い、Cがいる自宅に帰っていくのだ。

幽霊にしては……

その幽霊がMであることは想像がつく。
想像がつく、というのは、それはシーツをかぶっているため、シーツの向こうの正体まったく姿が見えないのだ。
だからMであると確証は持てない。しかしその振る舞いを見ていると、おそらくMだと想像がつく。

それにしても、と思うのだ。「シーツのおばけ」だなんてあまりに月並みでありふれていやしないか? しかもこのシーツのおばけ、頭部らしきところに、目のような黒い穴が2つ空いているのだ。逆の意味でやりすぎではないかと思った。

このありふれた幽霊のイメージが、まさかあとになって効いてくるとは思いもよらなかった。そしてこの、シーツの奥の姿が見えないという設定が、この物語においてたいへん大きな意味を持つのだ。

幽霊がC(女性のほう)のところへ戻っていったあたりで、ジェリー・サッカー監督の『ゴースト』的なラブストーリーが展開されるか、あるいは生者と死者のコミュニケートできないもどかしさ、切なさが描かれるのかなと、いろいろ想像したが、しばらくして物語は急旋回。

喪の期間は終わった。Cは生きなければならない。

Cはあれだけ悲しみに暮れていたが、やがて、時が彼女を癒す。
その時の経過を、彼女が外出するために扉を開けて出ていくショットの反復で表現している。

ある夜、Cが帰宅すると、男性を連れている。
Cとその男性は扉の敷居のところでキスをして別れる。
幽霊は室内からそれをじっと見ている。

しばらくすると、彼女は2人が暮らした家から、荷物をまとめて出て行ってしまう。
(その際、室内を白くペンキで塗り直していくのだが、柱にできた隙間のところに、彼女は何かを書き記した紙切れを差し込んでいく。これについては、観る人によっていろいろな想像の余地があるだろうから詳しくは書かない。)

さて、未練を捨てきれないのはむしろ幽霊のほうだ。幽霊になると感情の変化さえ止まってしまうかのようだ。あるいは時が流れなくなるのかもしれない。
Cが出て行った(おそらくは先の男性のもとへ)あとにひとり取り残された幽霊。

幽霊は荒れに荒れる。
新しい入居者として、ヒスパニック系の家族連れや、幽霊に理解を示しているつもりのちょっと虚栄心の強そうな男性などが越してくるが、幽霊は怒りをぶちまけて(生きている人間側から見れば「怪奇現象」を起こされて)、家から追い払ってしまうのだった。

タイトルにある不定冠詞"A"の意味

ついに2人が住んだ家は廃墟となり、取り壊されることになる。幽霊は文字通り天涯孤独の身だ。
場面は変わり、いかにもな姿の幽霊は、広野に立っている。
どうやらタイムスリップしたらしいとしだいにわかってくる。
おそらく西武開拓時代のアメリカ合衆国だ。その広野にやってきた、荷車を牽いた家族連れが映し出されるところからそれはわかる。
一家はそこに、みずから家を建てようとしている。

このあたりから、物語のおもむきが変わってくる。
ありふれた姿のMの幽霊が、同時にこのアメリカの広野の地霊のようにも感じられてくる。
じつは、幽霊の中身は、Mではないのではないか。少なくとも、Mだけではない、のではないか。

それはしだいに確からしく思われてくる。時間はループしていて、この幽霊は時をたどりなおし、冒頭の場面、つまり、まだ生きているMとCが取り壊される前の家で暮らしていた時へと至る。

つまりそこにいる幽霊は、もはやMではなくなっている。だってまだMは生きてそこにいるのだから。
思うに、この幽霊は2人が暮らした土地で死んでいった他の人間たちの霊でもあったわけだ。じじつ、最初は真新しい白いシーツをかぶっていたMの幽霊は、薄汚れていく。このことが、幽霊の内実の変化を象徴しているように思うのだ。
それにともない、Mの霊は、これまでに死んでいった人々の上に、自分の暮らした家が立っていたことにも気づかされるのだった。

ここでふとタイトルの『A GHOST STORY』についている不定冠詞のAに思い至る。
ある”幽霊譚。
つまり、数ある幽霊譚のなかの1つ、といった意味合いである。
そして、ありふれた幽霊の姿がそれに重なる。この物語はなんら特別なものではなく、背後にはアメリカ合衆国の短い歴史のなかで死んでいったおびただしい人々の幽霊譚がある。
だからこその、人口に膾炙した、ありふれた姿だったのだと気がついた。

この幽霊が逆に、エイリアンみたいな異物感まるだしの姿だったら、その物語は一回性のものになる。そこで始まり、そこで終わり。

本作の幽霊は、「うつろな器」だと言い換えられるかもしれない。つまり、あらゆる霊を包容し、個と普遍を自由に行き来できる存在だ。
真っ白なシーツ1枚でそれを表現してみせたことに、遅ればせながら感動が迫ってきた。

まとめ。そしてさらに深読みするなら…

まとめておこう。
本作の前半は、Cの視点によって展開する喪失の物語。パートナーのMの突然の死により悲しみに暮れる彼女。
しかし彼女はまだ生きなければならない、生きたい。

一方でMは幽霊となって2人が暮らしていた(いる)家でCを見守っている。しかしCがおそらくは恋人のもとへ去ったあたりから、視点はMの幽霊に移る。こんどはMにとっての喪失の物語だ。
Cを失った幽霊は、新たな入居者に害悪をもたらす存在になってしまった。

ついに2人が暮らした家まで失ってしまったMの幽霊は、広野にひとりたたずむ。そこは西部開拓時代のアメリカだ。
幽霊は、Mのそれであると同時に、これまでに亡くなった過去の人たちの霊でもあったことがわかってくる。
幽霊のありふれたヴィジュアルは、その普遍性のようなものを象徴しているのだった。
いわばアメリカの歴史を生き直し、歴史に合流し、その上に自分がいることに、Mの幽霊は気がついた。その意味で、本作は幽霊の成長物語と見ることもできるかもしれない。

しかしさらに深読みするなら、男の幽霊がなぜアメリカの歴史を背負っているのかという問題に注目してみてもよい。
そういえば、Mたちの隣家には、もうひとりの幽霊が棲みついているのだった。この霊は、家が解体されるとともに消滅してしまう。私はこの幽霊を元女性と見なしながら観たのだが、女性の幽霊が消滅し、一方男の幽霊が歴史につながっていくのだとすれば……と、ジェンダー的な視点からも解釈ができる作品になっていた。


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