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「ゆうぐれ」を借りに

クリスマスでよろしかったですか?


汗ばむほどの日曜日の昼、必要があってユリ・シュルヴィッツの『ゆうぐれ』という絵本を図書館へ借りに行った。
でもなかなか探し当てられなかった。

近くでいそがしそうにしている司書の方にお願いすることにした。とてもまじめそうな方だった。
さすがに慣れたもので、彼女は最短距離で目的の書棚にむかって速足で歩いていく。私はそのうしろからついていく。

(場合によっては司書の方もなかなか見つけられないことがある。そんな時は2人してドラクエみたいに一列になって書棚の間の通路をうろつくことになる)

『ゆうぐれ』がある書棚は児童本コーナーのすみっこにあった。これは見つけられない、頼んでよかった。。と思っていると、司書さんが突然ふり返り、

「クリスマスでよろしかったですか?」

と真顔で言った。

クリスマスでよろしかったですか!!??

何のことか理解できず、でも生まれて初めて聞く日本語のフレーズだとちょっと面白がりながら目顔で問いかけると、

「クリスマスでよろしかったですか?」

彼女はまたびっくりしたような顔で訊いてくる。

何らかの審査に通れば、"クリスマス"という行事をまるごと私ひとりにポンと手渡してくれそうな口ぶりだ。しかしその何らかの審査はとてもハードルが高そうだ。背徳の香りさえする。

ようやく、ピンときた。

「クリスマスの話なんですか?」

と私が訊き返すと、司書さんはうなずいた。
私はその時まだ絵本の内容を知らず、『ゆうぐれ』とクリスマスが頭の中でまったくつながっていなかった。

「もう夏ですもんね」

笑いながらそう言うと、司書さんは臆面もなく、「はい」と答えた。

本書を受け取った後になって、「初夏にクリスマスの絵本を借りる男」というのがよほど不審に見えたのだろうかと思うと可笑しくて仕方がなくなってきて、ひとり思い出し笑いをしてしまった。その時の自分のほうがよほど不審に見えただろう。

とはいえ人というのは何を不審に思うか分からない。
それぞれにそれぞれの来歴と物語の光源があって、それを元に物事を判断する。
司書さんはとても想像力が豊かな方で、初夏にクリスマスの絵本を借りる男というのがとんでもなく恐ろしい存在だった可能性もある。

外に出ると空が夕焼けに染まっていた、と書けばうまくまとまるところだが、外はまだカンカン照り。

『ゆうぐれ』をひらく

作者のユリ・シュルヴィッツは1935年ポーランド生まれ。第二次世界大戦に巻き込まれ、イスラエルを経てニューヨークへ移住。『ゆき』『よあけ』は大好きな絵本。ここに描かれる決して明るいとは言えない空の色は、故郷ワルシャワの空なのかもしれない。

うってかわって、2013年刊の本書はまず鮮やかな西陽の色が目に飛び込んでくる。その日はクリスマス。
いぬを つれた おとこのこ」と「くろひげの おじいさん」が日暮れに散歩に出かけるところから始まる。

川の向こうに夕陽が沈み、やがて街灯がともり、店々にも照明がともり、街路にはイルミネーションがともる。こうして自然の光がじょじょに人工の光へと移り変わっていくさまが幻想的に描かれる。

誰そ彼(たそかれ)時

たそがれ、とはよく言ったもので、夕刻をあらわす「黄昏」(たそがれ)はもともと、「誰そ彼」(あなたはだれ?)から来ているという。陽が沈み、お互いの顔が識別できなくなる夕刻。
不安になるから、お互いの名前を尋ねあう。

しかし今日はクリスマス。急足でうきうきした街路をゆく人たちが、得意げに胸を張って今日の予定を語っていく。

「ビグーレ、ユウグーレ グラーグナーダ オイジーゾウ アマーゾウ オガージイ ダノージイ プジーキナ ゲジーギ」

『ゆうぐれ』(p.15)

と、なかには「わくせいザダプラト」から来訪したひとも歩いている。
作者の、移民として合衆国にやってきた頃の記憶を投影しているのかもしれない。

たてものの かげが だんだん こくなり、
そらは ますます くらくなります。
しぜんの ひかりが きえてゆくと、
まちの あかりが ともります。

『ゆうぐれ』(p.16-19)

しだいに、通りはおもちゃめいてくる。通りをゆく自動車の列も、ショーウィンドウに並ぶ人形も、通行人たちも、おもちゃのよう。みんなとっくに魔法にかかっている。
「あなたはだれ?」と尋ねる必要さえない。


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