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「大磯 虎ヶ雨」−虎御前の涙は止まない、、−『東海道五十三次』

今日は早めに書けそうです。ちびまる子ちゃんを横目に書き上げます。
ちびまる子ちゃんは原画を小学校の図書館で貸し出し記録カードが私で埋まるまで借りまくっていたくらい好きなので、一話一話をかなり鮮明に覚えています。

ちびまる子研究もあるみたいで、大学一年の頃はその部類で卒論書きたいななんて思っていたくらいです。

今ではアマプラで見れるのでノスタルジックなコンテンツとして楽しんでいます。笑
そんなちびまる子ちゃんをチラ見している今日も広重。今回は『東海道五十三次』「大磯 虎ヶ雨」です。

◼️ファーストインプレッション

この絵も『東海道五十三次』の作品群の中でも有名なものの一つですね。
画面右手前から湾曲する街道は、画面を抜けてもっと奥まで続いていきそうな印象を与えますね。
そしてその街道に沿って鋭角屋根の軒が連なっています。
歩くたびに知らない店がどんどん出てきて、ワクワクする仕掛けになっているのかな?

街道の閉塞感を高めているのが背丈の高いこの軒の連なりだけでなく、手前の二股の松の木。
街道が主役なのに、その大事な入口を松で遮ってしまうなんて非常に大胆ではありますが、この視点こそがリアルな描写でしょう。

画面左に広がる原っぱに置かれている藁の塊は一体なんなんでしょう。
よく牧草地に置かれているもののようです。

この絵が描かれている日は雨だったのか、馬に乗っている人もしっかり雨除けをしているので前の宿場からしっかり用意していたものでしょう。
突然の雨というわけではなさそう。
今回の雨の描写は控えめで、薄めの黒い直線で描かれています。
『名所江戸百景』の「大橋あたけ」では雨が主役と言わんばかりの主張でしたね。雨の描写をこの初期の作品から秀でた技量があったのですね。

今日はこの描かれた場所と、ここの虎ヶ雨について見ていきたいと思います。

◼️大磯

そろそろ神奈川も真ん中を越してきて、土地勘がなくなってくるあたりなのでしっかり見ていかないとですね。

左下の赤ピンの真ん中に「東海道五十三次 大磯宿(広重筆)」と書かれたところがあり、ここが実際に描かれた場所であるみたいです。
それが、意外と前回の平塚からは目と鼻の先?
本当に大磯がここを描いたのであれば、ですけれど。

神奈川でもわからないと言いましたが、意外と箱根も小田原もまだなんですね。
箱根大好きなので早く見たいです。

◼️虎ヶ雨

この副題にある虎ヶ雨という名前は逸話があるそう。

曾我の雨虎が涙ともいう。旧暦5月 28日に降る雨をいう。この日は曾我兄弟仇討ち決行の日で,曾我十郎祐成に愛された大磯の遊女虎御前が,十郎の死を悲しんで流す涙が雨となって降るというもの。もともと5月 28日の前後は,田の神を送るさなぶりの祝いのためにも雨が待たれ,たとえ数滴であれ,この日には雨が降ると伝えられた。しかし,この雨が虎御前と結びつけられたいわれは明らかでない。おそらく仇討ちの日が大雨であったとされること,また曾我狂言における虎御前の貞女ぶりが涙雨のイメージを呼んだことなどによると思われる。

ブリタニカ国際大百科辞典

なるほど、あの、曽我兄弟の仇討ちのことですね。なんてわかったような口を聞いていますが、鎌倉殿の13人のシーンでしか想像できません。
確かに仇討ちの日は大雨の演出でしたが、史実に基づいていたのですね。あの雨の日に結構した仇討ちの雨は十郎の愛人遊女の貞節ぶりを信じたものなのですね。

ああして反乱軍として、源氏に不和をもたらす人間として描かれましたが彼らにも愛する人がいて、守るべき正義があったのだと思うと歴史はどっちの側で見るか非常に大事になってきますね。

ということでこの絵が描かれている日が五月下旬ということになり、段々と四季が流れていくことがわかります。どんな景色を見られるか楽しみです。

東海道大磯 (おおいそ) の遊女。『曽我 (そが) 物語』で、十郎祐成 (すけなり) と契って妾 (めかけ) になるが、兄弟の死後出家する。出家後、真名本 (まなぼん) では、熊野、太子、吉野などを回国し、天王寺に滞留したあと、東海道を下って曽我の里で兄弟の一周忌を行い、骨を信濃 (しなの) 善光寺に納めたとある。流布本では、さらに上洛 (じょうらく) して法然上人 (ほうねんしょうにん) の法談を聴聞している。尼となった虎女が諸国を巡歴して記念にとどめたという虎が石の伝説や、また、虎女の墳墓と伝えるものは各地に多い。神奈川県大磯町延台寺の虎が石、静岡県足柄 (あしがら) 峠の虎子石はよく知られる。山梨県南アルプス市芦安安通 (あしやすあんつう) では、虎女はこの村の生まれだといい、祐成没後は故郷に帰って没したという。また、兵庫県朝来 (あさご) 市の墓は、この地を訪れた虎女が足を患い没した由を伝えている。「トラ」は本来、石の傍らで修法する巫女 (みこ) の呼び名であったと考えられており、石占 (いしうら) などを職掌とする回国の巫女の活躍が、のちに大磯の虎に結び付いて各地に残ったのであろう。

日本大百科全書

虎女の逸話が残っている場所がいくつかあるようで、やはりおおむね神奈川鎌倉の近辺なのでしょうね。
しかし虎女は故郷に戻ったとされ、山梨県にいたみたい。
遊女とはいえ愛人には軽薄なものではなく人生の後半も十郎を想って生きていたのですね。

虎女の逸話を調べてみるのも非常に興味深いものですね。
いろんな文献を漁ってそれぞれの虎女の描写の違いを見てみるのも面白そう。

広重はこの虎女の史実を知っていて、大磯に重ねて描いたのなら非常にいきな演出です。

今日はここまで!

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