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【C102同人ゲーム】Child of Doppelgänger-Prequel- の感想

Child of Doppelgänger-Prequel-

 コミックマーケット102で頒布された同人ゲーム『Child of Doppelgänger-Prequel-』をプレイしたので感想を残します。

作品紹介

あらすじ
 運命に翻弄される姉妹。
 偏在するありふれた不幸と幸福。

 自閉スペクトラムの妹と暮らす私は先生から授かった予言の中で生きている。暗い水を否定する言葉はたとえ自分が人殺しになるものだとしてもとても優しいことのようだ。善なる神の瞑目、悪しき神が嘲笑するグノーシスの思想、時間の概念の放棄を命令する光子の振る舞い、幸福をもたらす内因性オピオイド、運命を告げるチャイムの音、山羊の歌、回転、そして言葉。これは蛹――ゴーレム――へと至るイニシエーション。運命に諦観し、愛を貪り、生を希求し、波の前で祈りを腐らせ、救いのない荒地の中からそれでも一つの結末を選ぶために奔走する。扉の先に広がる景色を求めて。
 パッケージの裏面より引用


気になる点

 これは書かないとせっかく書いた感想に信憑性がなくなるので書きます。

登場人物の思想
 思想が気になるというか正しくは、「この振る舞いをする人間がこれほど自分の考えを言語化できるのか」という疑問です。物語としての体を保つのであれば、登場人物を真に描くのであれば、ここも気を遣った方がいいかなと思いました。今のまま思想を話す形式もわかりよくていいですけれども、いやに冗舌だなと思う場面はありました。

登場人物の書き分け
 さっきのと少し重なるところもありますが、全体を司る一つの思想を登場人物全員が各々うっすらと背景に潜ませている感じが気になりました。登場人物によってそうじゃないこともありますが、どこか役者っぽいというか、この言葉は本当にこいつが思考して辿り着いた領域なのかなと思う場面がありました。

BGM
 曲単体でも主張が強めのBGMがあるので、そこが気になりました。イヤホンをつけてプレイしたのでその影響もあるかもしれません。まあそれが雰囲気を損なったのかといわれたらそうではないですけれども、読むときにはちょっと過剰かと思いました。


説明

 話の内容は作品紹介にある通りです。運命に翻弄される人間の、人間たちのお話。ふつうに文章を追うだけであれば3時間から5時間くらいだと思います。内容の重厚さ、描写の容赦のなさに加えて、自分の考えを刺激する描写が出るたびに立ち止まりながらじっくりと読んだので、私は20時間ほどかかりました。それほどに心に来る描写が多かった、あるいは思考を刺激される描写が多かったです。

 端的に述べるのであれば、『Child of Doppelgänger-Prequel-』はよかった。描写から、思考を巡らせていることが伝わってきました。わかりよく言えば、こじらせていることが伝わってくる、あまりに私好みな内容でした。

 幼いころには確かに存在していた疑問。それは成長につれて、だんだんと薄まっていく。生きること、死ぬこと、なぜ生があるのか、なぜ終わりがあるのか。そういった哲学的問いは、他人との交友、勉学、労働といった社会が引いたレールに沿って進んでいると次第に薄まっていく。あるいは、いつかの折に無駄だと一蹴し、雑に定義したり、放棄したりしてしまう。明確な答えのない問いに対して歩むことの興味を失ってしまう。
 しかし、社会が引いたレールから少しでも外れた人間は、どうして哲学的問いを手放さずに歩んでいく傾向がある。それも、意識的に。
 その問いを薄れさせずに保ち続けている人間、その問いを吐き捨てずに進み続けている人間は、周りとの違いを覚えながらも、自分を痛めつけるようにその道を進んでいく。苦しみを味わいながら、先が苦しいことをわかっていながらも、もっと深みに落ちていく。

 これは自分の経験則ですが、一般的な幸福から外れてしまった人は、こういった傾向の人が多いように感じています。破滅的というか自滅的というか、痛みや苦しみにこそ実感があって、光は常にまぶしさを放っていると感じてしまうような。

 それはさておき、本作はこのような哲学的問い、あるいは思想について多く語られています。どこかに自分の思想に通じるところがあったり、この部分は違うけれどここは同じであったり、あるいはほとんど同じであったりしておもしろかったです。この点から、自分が進めてきた思考と、作者のミズハちゃんが進めてきた思考を比べるという愉しみ方も十二分にできる作品だと思います。
 物語調ではありますし、各登場人物によって少々の違いはありますが、思想は確かに伝わってきますので、人の思想や考えに触れるのが好きな人にとっては、たまらない逸品なのではないかと思います。


Child of Doppelgänger-Prequel-
 ここまでに書いたような内容が好きなひとには、特におすすめの作品です。ぜひぜひプレイしてみてください。


感想

 ここからはプレイ画面を交えつつ物語の内容について触れていきます。
 もし未プレイの場合は読まない方がいいかなと思います。あなたの行動を縛るつもりはありませんので無理にとは言いませんが。


冒頭
 運命とは、辞書によれば人の意思によらず起こる出来事。当人たちの意思とは関係なく、その身にかかる幸不幸。
 それに対して主人公理香子はこのように述べていました。

 私の運命が、人生において遭遇する出来事が、もしもある程度まで決まっているのだとすれば、それはとてもやさしいことであるように思えた。

 自分の振る舞いが悪かったからこうなってしまったのだと思わなくてよいので、私も優しいことであるように感じます。
 しかし続く文章は「言わば無数の扉が乱立する廊下に放り出されたのだ」となっており、選ぶのはあくまで自分であるとしています。扉の向こうは、開けてみなければわからない。でも選ぶという過程、つまり選択責任が伴う過程が抜けていないところからするに、優しいことではあるけれど、それは自分を包み込んで守ってくれるような種類の優しさではないのだと言っているように感じます。
 思うに理香子にとっての優しさとはこの種のものしかないのではないでしょうか。この一文だけでも、包み込む、あるいは守るという優しさは、他人が自分に向けられるようなものではないと思っているような節を感じます。


自分が苦しいと思えば思うほど、苦しくなればなるほど快楽は大きくなった。
――自分を苦しめるために、より大きな快楽へ入り込むために。

 自分と重なる描写が出てくる。わかってしまう自分が嫌になるけれど、嫌とか言っておいてこうして書いているのは、自虐的に気持ちよくなっていることの証左です。自分を気持ち悪いと言って気持ちよくなる人間のなんと気持ちの悪いこと。


 過去編、父親が出てくる。

そうして殴った後は涙声で私達に許しを請うのだった。

 こいつ嫌い。私が父親というもの対していい印象がないのも相まって、嫌な気持ちになりながら読みました。弱い人間がさらに弱い人間を痛めつける光景はどこに行っても一様。そして弱い人間が弱い人間として醸成された過程をみれば、きっとまた同じものが見えるのだと思います。この構図は突然変異で精神が変容でもしない限り、ずっと変わらないように思います。

児相

自分たちが不幸でなければそれでいい。

 人間は脳が発達した生物でありますが、しょせんはそれまでのこと。社会を構築している大部分は、他者に対して肥大した脳の機能を割くことなどしません。結局どこまで行っても人間は、自分のために脳を使う。人にやさしくするのも、人に手を伸ばすのも、全部自分のため。結局自分が気持ちよくなりたいだけ。やさしさとは、気持ちよさの矛先が他人を操る方面に向いているだけだと思います。


生々しい感情は他人の感情を容易に、強く揺さぶってしまう。

 私は人の感情を強く揺さぶったことがあります。それも作中の文章で書かれている方法で。しかも私はそれを物語として書き残し、内にある感情をすべてさらけ出して、なおかつ相手にそれを読ませました。
 揺さぶってしまうことは知っていた。暴力的であることも知っていた。生々しい感情であるも当然わかっていた。それでも、ぶつけた。
 これを思いの強さゆえに、などと美談にするのが世間の風潮でしょうが、いやあ、殊更に気持ち悪いです。
 私は自分を自分のまま、気持ちの悪いありのままの自分を、なるだけそのまま歪めずに認識しているつもりなので、その事実を歪める風潮はどうにも受け入れられません。


一つは限りなく赤の他人に対して見せる仮面、もう一つは家族や友人に見せる仮面、最後は自分にだけにしか見せない仮面。

 最低三つのペルソナを持っているとのこと。つかぬことをお伺いしますが、この感想を読んでいる方は三つどころか、倍でも足りないのではありませんか。ミズハちゃんの作品が好きで好きでたまらなくて感想まで漁るような人間が、私を含め世間でいうまともに近しい人間だとは思えません。


闇を抱えて生きてきた人の人生というのは面白いものでね、必ずと言っていいほどまともな人生を歩めていない。それを見るのが僕は好きなんです。

 自分に似ている。文章にしてみると実に気持ち悪いです。どうして僕はこんな風になってしまったのだろう。たぶん同族意識、仲間意識があるからなのかな。


沁み入るんですよ、心の傷口というやつに。

 ここらの描写を嬉々として読めるようだったら、私はもっと生きやすいのだと思います。しかし実際は自己嫌悪の嵐でした。私はただ自分が抱えているものを見て、他人の経験を聞いて、安心したいだけなのです。「ああ、よかった。自分よりもつらいひとがいるんだ」と思いたいだけなのです。
 生きていて申し訳ない気持ちにさせられます。でも、この苦しさが結局気持ちいいんです。ほとほと自分には、困ったものです。
 いつかちゃんと、生きててごめんなさいしないと。


くるみに水瀬と鍵屋のことを話している場面

「くるみさん、話、聞いていませんよね」
「はい」

 ここすき。貴重なほのぼのシーン。


百均で買った〈かけいぼ〉とぐにゃぐにゃの字で書かれたノートを開き、

 こういうのがさらっと入るのが憎い演出です。二人で生活をしている、ここには二人の暮らしがある。その情景に彩があることを想起させられます。


「きっと辛い思いをしてきたのねえ」

 すごく分かる。こういうことを言われると惨めな気持ちになります。相手は善意で言っていても、こちらを気にかけて言ったのだとしても、その言葉は自分に刺さり、確かに傷ついているのです。自己の内に蓄積していく傷や痛みは、こういった善意によるものの方が大きいように思います。悪意なしに同情されるのは、自分が惨めになるのでやはりつらいです。


「子孫を残すことだけが彼らの生きている意味だと考えると虚しくなりませんか?」

 生きる意味、生殖し繁殖することだけが意味なのだとしたら、虚しい限りです。生きる意味を、誰かが与えてくれるものだとするならば、それこそ動物に刻まれた機構である生殖こそが生きる意味になるのかなと思います。それ以外の何かに意味を求めるのであれば、自分で付与するしかないと思います。


「涙とおさらば出来ればいいんだけどねえ」

 ほのぼのシーン。願わくば、と思ってしまう時点でそうならないことがわかっているようなものです。このままが続けばいいけれど、続くわけがない。


根岸が死んだあとの会話

「墓は暴くべきではない」

 死人に口なしとはよく言ったもので、最後にそばにいた人、何かを言った人が一方的に悪いような気分にさせられる。でもこれはおかしいと思う。だって客観的に、特に根岸が理香子を攻撃したあの場面だけを見れば、悪いのはどう考えても根岸だ。少なくとも身体は無抵抗の人間を一方的に攻撃していたのだからそれは間違いない。やって良いことと悪いことに、背景は関係ない。その後の言葉による反撃が思いのほかきつかったから理香子が悪いように見えるけれど、あの場面「だけ」を見れば理香子は攻撃に対する反射をしただけだからそう悪くない。まあ言葉は殊に酷かったですけれど。その意味では理香子も大概暴力性がある。
 とここで書きたいのはそういうことではなく、なぜ人が死ぬと善悪の話になってしまうか、という部分。これはやはり死という特性が人間の中で尊大な部分を占めるからのように思います。少なくとも僕はそうです。だから自殺であればその出来事の責任を負うべき存在がいなければいけなくなる。
 しかし最初に書いた通りそれはおかしい。なぜなら仮に根岸が死んでいなければこの問題は大したことにはならないからだ。根岸は追い詰められた結果周りを不幸にする方法を選んだ。でも根岸が死んでいなかったら? 踏みとどまって後日真実を知ったとしたら? 別になんて事のない問題なのだ。
 その意味で死という手段を選ぶ根岸はずるいと思う。こんなのは一方的に相手を悪者に仕立て上げて勝ち誇るようなものだ。死を利用した攻撃といっても過言ではない。その意味でもやはり根岸は、暴力的なのだと思う。

 この辺りを読んでいて自分の命は、本当に自分のものだと言えるのだろうかという疑問も浮かんだ。


「知ったような口で私を語って馬鹿じゃない?」

 怒られたので謝ります。私は理香子さんのことを何も知りません。わかったように書いて申し訳ありませんでした。
 
 所詮人は自分が見たいようにしか見ない生き物です。事実を事実のままに捉えられる人間なんてほんの一握りしかいません。でもこういう理不尽は世にありふれています。三宅の小言もそうですが、ありふれた理不尽は、誰の人生にも等しく配備される障壁みたいなものなので、対処できるようにならないと社会に適応するのは難しいように思います。


母親が家に来た場面

「そんな些細なことをまだ気にしているの? 子供を嫌う親なんている訳ないじゃない」

 ここ本当に嫌い。避けようのない毒が急に湧いてきたみたいで、読むことさえ苦しかった。不快すぎて軽い吐き気を感じながら読んだ。自分にとって辛かったことに何の理解もしようとせず、過ぎたことのように扱って気色の悪いきれいごとを並べ始めるという、文章にすればこれだけのことなのに自分でも信じられないくらい不快で、心の底から嫌悪がのぼってきた。自分にも十分あり得る状況だったから、余計におぞましいものを見せられている気分になったようにも思います。
 関わると不幸にしかならないのに、家族という鎖でずっと縛られるのは本当によくない。


くるみを殺したあと

「私は運命に敗北してしまったけれど、それで終わらせたくはなかった」

 なるべくしてなった感じなので、展開自体に吃驚はありませんでしたが、やはり実際にくるみを絞める場面は辛かったです。「ごめんね」という言葉はあまり好きではありません。それは嫌なことが起きたことの証左でしかないから。
 くるみのことについては、何度やり直しても同じことを繰り返してしまうと書いてありました。それについては同意せざるを得ません。理香子が悖った人間になるのは、それこそ運命なのだと思います。
 見返すために、自死はしない。依存対象を失った人間がどう生きるのか、また依存対象を見つけるのか、自分ひとりで歩けるようになるのか。先はわかりませんが、くるみのことを想うなら、自ら殺めた命のことを想うのであれば、楽に死なないでほしいと思いました。


最後

そうだろう、東里陽平?

 続き、というか本編が気になる終わり方……。


 というわけで『Child of Doppelgänger-Prequel-』終わってしまいました。
文章の雰囲気と題材がとても調和していて、どっぷりつかることができました。セーブ画面や鑑賞画面、音楽画面などの作り込み、使用曲のリンク、参考文献などからも、非常に丁寧に作られていることがわかります。

 物語にのめり込んだ非常に佳い体験ができました。
 ありがとうございました。
 本編心よりたのしみにしております。

お風呂かこ




おまけ BGMについて
 気になる点でBGMについて書いたくせに、実は文章主体の作品でも力強いBGMって行けるんだ、使ってみたいなと思いました。力強いBGMと文章の融合についての知見は、ドッペルゲンガーをやらなかったら得られていなかったと思うので、これは確かな収穫です。
 なお作中曲だと私はfind my wayがいっとう好みです。


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