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027 NOTO, NOT DOWN!


 前回は多少毛色が違うと思われたでしょうが、私のnoteは基本、『君は放課後インソムニア』を含め、能登のあしたのための記事のつもりで。

 私がなぜ、君ソムしか縁のない(遡れば『めぞん一刻』で金沢が舞台のエピソードがあったが)能登に足しげく通ってるのか? それは能登の将来が大袈裟にいうと日本の地方(都市/の町)の未来を決定/直結すると思うから。
 正直、元日の地震発生直後の霞が関(中央省庁)/永田町(国会議員)の対応を見て、私は日本の中枢の政治は地方の政治を蔑ろにし、その自治をなきものにしたいと勘繰ったものです。その認識は発災から三か月が経とうとする今でも変わりません。むしろ益々確信になってます。
 思えばなんだかんだ言って戦後民主主義はアメリカからプレゼントされた社会だったと思う。それはナチスドイツを誕生させてしまった(結果的になってしまった)戦間期の失敗から連合国が吐き出した教訓/回答だったはずだ。しかし自ら勝ち取った/もぎ取った社会/憲法でないため、今の人権派の識者を見てもやはりお任せの態度が伺える。
 しかし政権与党が(閣議決定という)好き勝手の政治の方法を確立した後に能登半島地震/能登地震が起こった、現在進行形の今こそが「人民の人民による人民のための政治」の逆襲、後ろから数えてもう何回のない絶好のチャンスの一回だと思ってて。
 だから私は昨年の12月23日に君ソムの聖地巡礼に行けたことを何かの縁と思い、24日に帰ってから八日後の能登半島地震を、私の行動の軸にしようと思ったのです。能登に通い続けて何が出来るか今の時点では不明だけど、能登について行動しなければ「能登を見捨てる政治」を批判する資格がないと思ったから。
 それは東日本大震災の折、遠藤ミチロウの故郷の二本松が被災したにもかかわらず、当時は気持ち的に何も行動しなかった/出来なかった自分の後悔から来てる。その証拠に後ろめたさもあり、未だに旅行でも被災三県には行けてない。
 だから先週は失敗したけど来週もその次の機会も災害ボランティアに参加する。そして能登が震災を生かし切るか、それとも震災前の状況が加速する過疎の道をたどるか、微力ながら関わりながら見守るつもり。殆ど私自身の境遇と同一視しながら。

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