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パトリシア・ハイスミスの辛辣で優しい洞察力。少女は孤独を愛した。そして寂しがりやさんでもあった。

死後発見された日記が元になったパトリシア・ハイスミスの映画が公開された。
私が住んでる場所での公開は今週末からなのでまだ見ていないけれど、見に行ってみようと思う。

学生時代からずっと好きだ。ほとんどの作品を読んでいる。何度も繰り返し読んだものもある。何がどう好きなのか、どうしてこの作家に惹かれるのか、よく、考えたりもした。

読んでいて感じる事は、彼女自身が周りから浮いているという事と、だからこその距離感と客観的な洞察力の持ち主だというところじゃないかと思う。

周りから浮いているというのはいい意味で、人と違うからとか才能があるからとかそんな事ではなくて、根本的に違う人種なんじゃないかと思っている。

人間は肌の色が違ったり目の色が違ったり見た目の性別が違ったりするけれど、ほとんど大まかにみると同じ作りをしている。
猫と犬ほども違わない。
ここがまた油断させる厄介なところで、もしも全てではないにしても、基本的な心のあり方が外見に現れる種類の生き物だとしたら、あともう少しははっきりとした違いが外見に表れて、犬と猫とを分けるよりは、もっと種類が分かれるのではないかと思う。
レトリバーなのかシュナウザーなのか、アメショなのか三毛猫なのかくらい。

距離感については、他人との距離感が全く掴めていない人をたまに見かける。
わかりやすく言うと、例えば公立の小学校なんかで同じクラスになったとする。
公立の小学校で同じクラスという事は、大学生じゃないんだから大抵は同じ歳。
公立だから同じ場所に住んでることも多いし、家庭環境も同じ様なものだと思われる。

でも、それは思われるだけで、同じ事なんてほとんどない。
30人いたら30パターンの違いがある。
なのに、あまりにもそのまま何も考えずにその環境を自分と同じ様なものだと疑うことなく受け入れてしまう子供は、ほんの少しの自分との違いを見出すと、大した事ではなくても途端に態度を変える。
出る杭は打たれるというけれど、出ても出なくても自分と違ったら攻撃する。

それは、自分とは違うという表面に現れた事象だけではなく、自分にはその違って見えるその子の事が、理解できないという恐怖心の表れなんだと思う。
その子の本質が、その子の環境が、その子の生活が自分とは何か違うし、自分の知らなかった世界だし、わからない、理解できない。

そしてその知らなかった事が自分の環境より羨ましいと感じたら、全く関係ないのに腹を立てたり妬んだり、その知らなかった事が自分より弱いと感じたら、今度は逆に強く出て馬鹿にしたり、蔑んだりする。
その違って見えた部分だって、その子のただの一部にしか過ぎないという事すら思いつかない。

同じクラスになった時から、他者と自分は違うものだと理解ができていて、観察する事ができるくらいの知恵さえあれば、その違いが明らかになったとしても、慌てなくて済むはずなのに、洞察力が足りない。
自分という殻の中に存在する意識と知識だけで物事を見て判断しているから、客観性がない。
転校生が来たら途端に興味を示すのに、初めからいるクラスメイトにしたってその転校生と同じで、大して何も知らないのだと思いもしない。

彼女の作品には、そういう人の弱さを種類別に探し出し、巧みに表面化させ、主人公やその周りの人間に、踏み出してしまったらもうどうする事もできない坂道のような道程を辿らせて、そういう種類の人間が自ずと向かうであろうエンディングを周到に用意する。
その道のりに皮肉なユーモアさえ散りばめながら。

人間と人間ははなから同じではないのに、ある一種の感覚を持った人は何かのきっかけで勘違いして「私と似てる」とか「私と同じだ」とまで思い込み、勝手な共感を覚える。
その先走った共感はいつも「私と」が考えの中心に置いてあって「あなたは?」とは思いもしていない。なのに少しでも自分と違うとわかると狼狽えておかしな行動に出る。それが夫婦でも友人でも、ただの隣人でさえも。
相手を思いやる気持ちが少しでもあれば、そんな結果にはならないはずなのに。

他人との共感を覚えるのが悪いと言っているわけではない。自己中心的で一方的な共感でなければ、それをきっかけに素敵な関係を作り上げて行く事ができる。そうやって相手を思いやりながら築いていける共感を持てるのは素敵な事だと思う。

パトリシア・ハイスミスが注ぐ他人への観察眼は以外にもいつも優しい。
切って捨ててもいいような人間でさえ、愛情深く表現の一部に取り込んでいる。
普通だったら、そんな人、もう見てあげなくてもいいのにと思える様な人間でも、それが人っていうものなのだからと言って、優しく見つめて観察してあげる。
まるで大好きなカタツムリを観察する時のように。

思い通りにならないとヒステリックに泣き喚いてる子供を最近も目撃したけれど、ああいう子供時代を経験した人はどんな大人になるんだろう。
大人になれば、外見は大人に見える様になったはずだし、自分の思い通りにならないからといって、まさか人前で子供の頃のようにヒステリックに泣き喚く(それが出来るのなら別にやってもらっても構わないのだけれど)訳でもないだろうし、もしも大人の皮を被った癇癪持ちのまんまだったら、可哀想に、生きづらいだろうな。
どうしたって思い通りになることの方が少ない上に、そういう性格だと余計に思い通りに生きられるとは思えない。

映画「パトリシアハイスミスに恋して」が「ゲーム・オブ・スローンズ」のブライエニー役だったグウェンドリン・クリスティーのナレーションで進んでいくのも、声が心地良さそうで楽しみ。

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