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パトリシア・ハイスミスに恋してを観た。

小雨の降る金曜日の午後、パトリシア・ハイスミスに恋してを観た。
なんていうか、好きで読んでいた本を書いた人があの人で良かった。

ギャラリーで公募展をしていると、何百と集まってくる作品の中に、やっぱりこれはしょうがないのだけれど、いいものとか普通のものとか色々ある。

私の公募展では、名前とタイトルしか求めていない。
レジュメも性別も年齢も書いてはいけない。だから、いい作品に出会った時、初めてこの作家ってどんな人なんだろうと考える。
カッコつけてるわけではないけれど、一応その道ではプロなので作品を見れば大体の事はわかるし、大きく外したことはない。
女性か男性か、女性的な男性か、男性的な女性か、若いか年齢を重ねているか、絵を描き始めてどのくらいか、そういう色んなこと。

性格も垣間見えるのだけれど、作品も人間と同じで隠された一面を持ち合わせている。だから作品が良ければ良く見えるほど、作家本人に会うのが躊躇われる時がある。作品では巧妙に隠されていた、作家自身の人間的な何か。
それがマイナス方向だったら、いくら作品が良くてもちょっと残念になる。
そしてその隠されていた何かが、後々、一瞬いいように見えた作品の化けの皮を剥がしていって、その作品から魅力を奪っていく。
そして詳しくなくてもプロでなくても、なぜかその部分は買ってくれる人にもバレる。
結果、誰にも求められない作品になるか、知り合いに時々買ってもらう程度の作品になる。それ以外の世界には羽ばたかない。
その巧妙な何かがなんなのかは、ここで書くと長くなるので今回は。

大好きで何度も読む本がみんなにもあるように私にもあって、学生の頃はパトリシア・ハイスミス、レイ・ブラッドベリ、ローレンス・サンダースなんかの作品を、勉強の合間や他の本の合間に挟みながら何度も読んでいた。
今は昔だが、鼻血が出るほど勉強した時期もあったし、勉強内容が現実的な内容だったから、余計にそういうお話が脳をリフレッシュさせる、いいビタミン剤だったのかもしれない。

引っ越したり入れ替わりがあったりしても、それらの本達は今でも私の本棚の一角をびっしり占めている。死ぬまで捨てないだろう。

パトリシア・ハイスミス。
文体がストレートで洞察力と観察眼があって、何気ない1人の人間に着目したら最後、そこから膨らませていくストーリーも重ねられていく心理も、この人にしか書けない魅力がある。そして女々しくない。最近の風潮で使っていい言葉なのかどうか、色々小難しく考えなくてはいけないんだろうけれど、もう、そんなこと言ってると説明が難しくなるし、別に国営放送のアナウンサーでもないので、勘弁してほしい。そう、女々しくない。

幼稚園くらいで初めて集団に属した頃から今まで、男女という括りを気にしたことがない。説明が難しいけれど、自分以外の人を見る時、相手が男だとか女だとかを最初に感じることがほとんどない。はっきり言うと、どんな人間なのかっていう事にしか興味がいかない。人として好きか嫌いか。
そして、いつも減点法で見てしまう。最初の持ち点はみんな100点。
そこから出発して、苦手なところがあると自分の中でそっと減点していく方式。
もちろんいい所を発見したらプラスして点数が戻っていく。
人に点数をつけるなんてと思うかもしれないけれど、判断の基準がないと相手をどう見ていいかわからないからそうしてるっていうだけで、テストの点数のように見ている訳ではないし、正しい答えがある訳でもないから、それこそなんていうか自分の感覚だより。
そしてこの時、男だろうが女だろうが、子供だろうが老人だろうがその他だろうが、みんなおんなじ100点から始まる。

それに意外と他人の減点数に関しては甘い。
もちろん自分の事もそんな風にジャッジしている。自分の点数の方がきつい。
自己嫌悪に到達する一歩手前で踏ん張れるくらいの危ないラインまで行く。

何が言いたいかというと、作品を先に知っている彼女の(日記を元にした一生ではあるが)人生を見て、あの本を書いた人が彼女で良かったと思えたという事。

勝手に想像していた彼女がそこにいて、その想像を超えた孤独と強さと儚さ、どんなにか生きにくかったであろう人生を、自己から湧き出る想像力と経験で紡ぎ出す文章の力に変えて颯爽と駆け抜けていった。

挫折も失望も、作品を作る事で昇華できる作家だった事が嬉しくて、こんなに生きても(もっと生きてる先輩に失礼だけど)お前なんかまだまだだなって嘲笑われるような、心に突き刺さる思いをくれる人がいるなんて、情けない心と幸せな心を一緒に鷲掴みにされたようで、スクリーンを見ながら何度も込み上げてくる涙の理由が、心のざわめきが、他人の人生なのに痛くて、同時に嬉しかった。

まだ見ていない人がいるからあんまり書きたくないけれど、インタビュアーが彼女に、何度も彼女が1人でいる理由を尋ねるシーンが多くある。
愚かしいにも程がある。
そしてどのインタビュアーもそれを尋ねる。
映画的に編集しているとしても、そういう映像がたくさん残っていて使われているのだからそんなケースが多かったのだろう。
本当に馬鹿だ。
目の前に1人でいる人間を見て、1人だと決めつける浅はかさに愕然とする。

もしもそのインタビュアーがいつも家族や友人に囲まれているシーンを見続けたとして、一見1人に見えなかったとしても、この人は1人じゃないんだななんて私は決して思わない。
何をもって1人とするのか、その人間の隅々に重なった色々な想い出も、出会いも、別れも、それらを形作る全ての経験も、肉体が見せるひとつという単位なんかより、数えきれない程のレイヤーがその人間を形成しているとは、なぜ思わないんだろう。

彼女はその質問が出るたびに、少しだけ間を置いてじっと相手を見つめる。
嫌な顔も顰めっ面もしない。
ただ、少しだけ時間を止める。

あなたは1人だ、1人ですよね、なぜ1人でいるのですか?と馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返した後、あろうことか「最後に、あなたは幸せですか?」とその男は口にする。

私は未熟だから「では私にも教えてください。あなたは幸せですか?」と聞き返してしまうかもしれない。
でも彼女は少しだけ珍しいものを見るように瞳を動かして、相手を見つめる。
2人の間にほんの少しの時間が流れる。その後、彼女の口元が少しずつほころんできて
「もちろん、ええ、もちろん幸せですよ」と光を帯びた瞳で答える。

そんな馬鹿に答えなくていいよと思う。
偉いなと思う。さすがだなと思う。
相手にするにはあまりにも愚かすぎる人間に接した時の、完璧な間と答え。

晩年のシーンで、インタビューを受けるのは屈辱的だったと彼女は言っている。
きっとインタビューをたくさん受けてる頃は、彼女にしたって、出版社やその他諸々を背負っているわけだから、受けなくてはいけないしがらみもあったんだと思われる。

馬鹿な人間は必死で利口なフリをする。
賢い人間は馬鹿なフリができる。

こんな映画や本に出会えると、日頃の細かなあれこれが瑣末な事に思えて仕切り直しができる。これから生きていく時間が、きっとまだまだキラキラしたものだと思える。

いい土曜日だ。
遠い過去より遠い未来より、今、目の前にある今日が素敵な時間でありますように!うんと楽しい週末をお過ごしください!

あっ忘れてた。音楽も全編にわたっていいです。



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