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「宿木の上の小鳥」by埴谷雄高。好き。

今は長文の本を読む時間がないので、短編を漁りながら読んでいる。

私の実際に存在する数少ない友人が、埴谷雄高の「宿木の上の小鳥」というエッセイがいいよ教えてくれて、それが書かれている本を貸してくれた。

なんていうかなあ、埴谷雄高にはいろんな側面があるし、なかなかに捉えづらい人だとは思うのだけれど、あの人の書く、ちょっとした日常から生まれたエッセイみたいなものを読んでいると、たった2ページくらいの文章で、心の底から一人になれたり、抑えきれないほど切なくなったり、物事や物を見る目があまりに優しくて泣けてきたり、卑怯な親父だ。

それを薦めてくれた友人に、なぜそれを薦めたのか、なぜ今のタイミングで薦めたのか、その人はそれを読んだ時、どんな風に感じたのか、聞いてみたい気もするけれど、聞かない。

お薦めされて読んだ本の文字は、もう、一つ一つが私のものになったのだから、私が感じたそのお話を大切に心にしまうだけにする。

「宿木の上の小鳥」
日々過ごしている中で、ちょっとした出来事に遭遇して、そのちょっとした出来事に、ちょっとした心の揺れを感じたとして、それを丁寧に見つめて、見つめ直して文章にする。

その文章が心を打つのは、自分が感じた心の揺れを書き留めておきたいだけに見える驕りのない文章で、その出来事が淡々と私の目の前に現れてきて、なおかつ、その中に差し込まれたたった一つの言葉で、鷲掴みにされる。

さりげなく切り取られた日常の出来事が、押し付けがましくなくきちんと作品になっている。

この人の本を読むといつもこんな気分になる。

この人の中にある感受性は、生まれつきなのか、生きていくうちに磨かれていったものなのか、そもそも、感受性っていうのは後から育てることが出来るものなんだろうかと。

なんとなく、なんとなくだけれど、感受性には種があって、悲しいかなその種を持たない人は、感受性の双葉も出ないし、花も咲かないような気がすると思う時がある。
なんとなくだけど。

その種を持ってる人は、双葉が出て本葉が出て色々な花を咲かせる。
ただ、きちんとお世話をしてお水をあげ続けないと、せっかく目が出てもそれなりにしか育たないような気もする。

ほっといても育っていく種なら心配ないけれど、自分では、まだ、上手にお世話ができなくて、お水をあげれない時期に、周りの人が上手にそれをしてあげれたらいいなと思う。

別に感受性があるからって、別に生きていく上でなにかの役に立つのかどうかわからないけれど、友人に面白い本を薦めることくらいは出来る。
それも「勧める」でも「奨める」でもなくて「薦める」。

だって、こっちのセンスに全く合わない本を勧め(奨め)られるほど、嫌な気分にさせられる事はないから。

明日は日曜日!
なにする?もちろん楽しい事だよねー。
良いお休みを!



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