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TAR 見終わってもなお、何故か今も心にとどまり続けている。音楽なのか、ストーリなのか、その他の何かなのか。

ケイト・ブランシェット主演、トッド・フィールド脚本・制作・監督の「TAR」を見に行った。
なんだろう、見終わって号泣したの初めてかもしれない。それも堪えきれずに。
今までも色んな映画で、深い愛情に触れたり、主人公の選択に思いを馳せたり、最後の一言のセリフに心が揺さぶられたり、作り物だとわかっていても、その2時間か3時間余りの出来事に侵食される感じはあるのだけれど、「TAR」はどういう感情がそうさせたのかわかるより先に、涙が溢れて止まらなかった。思考が追いついていない感情。
誤魔化そうとしたけれど、次から次へと涙が出てきて、自分でもどうかしちゃったんじゃないかと思うくらい。

見終わってどうにも心がおさまらず、カフェに行った。
そこに座って映像や言葉をなぞっていると、また、目頭が熱くなってきた。どうした私。

ケイト・ブランシェットが演じたのは、ベルリンフィル初の首席女性指揮者という役。この役は彼女でしか成り立たないと思うほど、圧倒的な存在感で、もはやリディアを演じているケイトというより、リディア=ケイトで、途中からリディアしかいなくなった。演技だとはわかっているのだけれど、オーケストラを率いて指揮をする姿も、音楽に没頭するあまり社会性や思いやりが少しだけ欠けている姿も、見ていて美しく激しく切ない。ただ、私にはなんとなくあなたはそれでいいと思えるところもあって、それでいいんだと思いながら見てしまっていた。

出る杭は打たれる?女性だから?まあ、それだけではない理由もたくさんある。
周りの人間に裏切られたり、疎まれたりして、全て奪われ(失って)、一人になる。周りの人間たちの行動も、凡人だからそうしてしまうであろう、最も単純で馬鹿げた行動。見ていてひどくみっともなく、情けない。

ラストシーン、それがスクリーンいっぱいに移された時、私はたまらなくなった。心が掴まれて椅子に座っているのもやっとだった。身体中が何かに突き破られたような衝撃だった。

映画の全編に流れる演奏はもちろん素晴らしい。リディアが爪弾くピアノでさえ。
圧巻なのはオーケストラに新しく入ってきた、チェロ奏者オルガの「エルガーのチェロ協奏曲」だ。ジャクリーヌ・デュ・プレ並みに圧倒的な演奏でオーケストラを引っ張っていく演奏、オルガ役のソフィー・カウアーの弓捌きとフレッドを捉える指の演技に驚いてしまった。演奏の音源は誰の演奏なんだろうと思ったら、なんとソフィー・カウアーは本物のチェリストで彼女自身が演奏している。
驚きでしかない。おまけに初めての映画出演。恐ろしい。

嫉妬に駆られるパートナー、シャロン役のニーナ・ホースも、007やゲーム・オブ・スローンズに出演していたジュリアン・クローヴァーの老獪な先輩指揮者の演技も、才能が今ひとつなのに上手く立ち回っている指揮者エリオット役のマーク・ストロングもこの役にはこの人しかいないなと思ってしまうキャスティング。

脚本・制作・監督のトッド・フィールドのセンスに驚かされた。彼はアイズ・ワイド・シャットでトム・クルーズを異形の世界に連れていく、白ウサギのような役どころのピアノ弾きを演じていた。キューブリックの作品に関わったことがこの映画に影響を与えていないとは思わない。見ていて、随所に良い意味でのキューブリック臭が漂っている。膨大な数の引き出しから引っ張り出される細かいディテール、物事への造詣の深さ、執拗なこだわり、匂い立つ人間の浅ましさや嫉妬、けれどもそれを全て見て見ぬふりをして包み込むような、愛という言葉でしか表現できないけれど、そんなに軽いものではない大きな何か。

映画はエンドロールから始まります。民族音楽の素敵な調べと共に。監督はこの曲を見にきてくれた人に、全部聞いて欲しかったんでしょう。エンドロールの途中に席をたつ人もいますから。そしてラストシーンまで疾走した映画は「THE END」という文字とともに締め括られる。わざわざ「THE END」と入れたところにも監督の意図が感じられる。

ここからは内容に触れます。
一日経って、私の涙は間違いだと気づいた。どん底に突き落とされたかに見えた彼女の人生が、そんなことはなかったんだと思えるようになった。ラストシーン、東南アジアの学生のようなオーケストラを指揮するリディア。それも曲は「モンスター・ハンター」というゲームに使われている曲で、オケの後ろにはスクリーンが下がりゲームの映像が映し出される。指揮台に立つ彼女は変わらず凛として美しいが、私にはショッキングでしかなかった。世界最高峰のオーケストラを率いていた彼女がこんなところでこんなオケで、しかもゲーム音楽を指揮するなんて。
今思うと、どれだけ自分がステレオタイプの感性の持ち主だったのかと、嫌になる。つまらない凡人は誰よりも私だ。音楽にもそれが示される場所にも「雲泥の差」などという言葉が当てはまるはずなどないのに。

そのオケで初めて指揮台に立った時、ベルリン・フィルにいた時と同じように作曲者の意図を感じようと団員に声をかけるリディア。うらぶれた路地のテーブルで夕食をとりながらスコアを何度も確認するリディア。
演奏が始まって、客席を長回しでカメラが捉える。コスプレした観客たちが真剣な眼差しでステージを見つめている。本当に真剣に。
もしかすると、リディアが今まで指揮してきたどんな公演よりも、真っ直ぐに音楽を受け止めて楽しんでくれている聴衆は、ここにこそいるのではないかと思えた。

ベルリン・フィルと言われていたオケは、実際はドレスデン・フィルが演奏していて撮影現場で同時録音された音源がそのまま本編で使われている。そして、サントラもその音源でリリースされている。今もそのサントラを聞きながら書いている。

レナード・バーンスタイン

全てを失ったリディアが子供の頃暮らした家に戻ってくるシーンがある。何度も見たであろうリディアの師であるバーンスタインの、古びたビデオがクローゼットの棚にたくさん並べてある。その中から迷わず一本を選び出し、多分子供の頃何かの賞でもらったメダルを首にかけて、その映像に向き合うシーンがある。その中でバーンスタインが語りかける、音楽の素晴らしさついて。
リディアは泣きながら映像を見つめる。そこから始まったリディアの音楽への道が、旅の途中で迷ってしまい、再びここに戻ってきた。そして、再び自らの音楽への長い旅を辿るために。


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