見出し画像

嫌い嫌いも好きのうち。なんて言ってくる人、それは多分間違っている。嫌いは嫌い。好きじゃない。

いろいろな文章を読んでいて、なんとなく文章ってリズムだなと思う。
ここち良いリズムで、最後まで読み進められるもの。途中でシンコペーションが何度も入って、適度なバランスなら気持ちいいけれど、そこまで入れてしまうと没入感をなくさせてしまうもの。16ビートだったり、ワルツだったり。

ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」のように、ゆったりと雄大でどこまでも流れていくような文章。ディジー・ガレスビーの「ソルト・ピーナッツ」のように、飛び跳ねるリズムが最初から最後まで続いている小気味いい文章。セロニアス・モンクの弾くピアノのように、最後までリズムキープされていて、メロウな感じだけど悲しくはなく、少しだけシニカルな文章。高橋 幸宏が叩くドラムのように、地上1メーター付近を、乱れることなく刻み続けるリズムのような文章。

書く人によって違って、それぞれに良さがある。時折、自分の好きなリズムとピッタリ合う文章に出会うと読んでいてとても心地いい。ヨーロッパの石畳を歩き続けてたどり着く、ステンドグラスと蝋燭の光に満たされた教会に誘ってくれる文章もあれば、知らなかった素敵な本やドラマの世界を見せてくれる文章もある。
そういう時、同じような内容の文章を読むとしても、やっぱりその文章が持っているリズムが、自分にとって心地良い方がすんなりと心に響いてくる。

イタリアの教会。
教会に行くといい子になった気がする。

最近、美醜に関することを言うといけないという記事やコメントをよく見かける。他人の見た目をとやかく言うのは、良くないと思う。でも、自分の好みに関してはそんなに簡単に変えられるものではないのでは?と思ったりもする。それを口に出すか出さないかは別として。
黄色が好きな人も嫌いな人もいるだろうし、あんこが好きな人も嫌いな人もいるだろうし、あんこが好きって言ったって、つぶあんは好きだけどこしあんは苦手っていう人もいると思う。
好き嫌いというのはそんなにいけないことなんだろうか。
怒られるかもしれないが、人間や動物の形状に対する好き嫌いも、どうしようもないことのように思える。私が言いたいのは、あくまでも「好き」「嫌い」であって、「嫌い」なものが「醜い」と言っているわけではない。

サーブラウは好きだけど、タスカンは苦手。
雨が降るとなぜかフロアシートが、濡れているという厄介さんではあったが・・・。

私はテングザルが嫌いだ。テングザルの性質とか、テングザルにもいいところがあるんだよ、とかじゃなくて、ただ単に形状が苦手だ。テレビに映ると、急いでチャンネルを変えるくらい苦手だ。その苦手意識がどこからくるのか謎だけど、ほんとに苦手なものはしょうがない。動物番組や東南アジアの昆虫番組が好きだからよく見るけれど、時々、彼らは映り込む。カニクイザルやテナガザルや、他のお猿さんは全然好き。
とにかくテングザルが苦手なだけ。こうやって文字で打っててもちょっと姿を思い出して、うげってなってしまう。もちろん、テングザルに面と向かって「あなたの形状が苦手なのです。」とは言わないし、申し訳ないと思うし、「俺もお前が嫌いだ、ウキーっ!」って言われても、もちろん構わない。

人や動物、昆虫の間にでさえ「自分の好み」っていうのはあるんじゃないかと思う。一種の生存本能ではないのだろうかとも思う。好きなものが100個あったら嫌いなものも、その半分くらいあったって不思議じゃない。日頃は好きなものを数えて過ごした方が気分がいい。(年に一度、年末になると「私の好きなもの100個」を書いて面白がっている。去年と今年、何が入れ替わったのかなあって。嫌いなものは書かない。嫌いなものは書かなくても簡単に思い出せるし、楽しくないから。)

この絵には、同じ構図で前側を描いたものもあります。ナイス。

なんとなくだけど、「苦手なもの」とか「嫌いなもの」という言葉を使うと、ちょっといけないような方向に持っていく人がいる気がする。でも、私はそうは思っていない。「好き」も「嫌い」も、何かしら、その感情を生み出したものによって、心を動かされたという事実は、確かなことだと思うから。どちらかというと「好き」でも「嫌い」でもないと思われる方が、なんだか辛い気がしてしまう。
こと、人の感性から生み出されたものに関しては特にそう思う。
心のどこにも引っかからない作品。心のどの部分も動かさない作品。それなら「嫌い」だったとしても、心に引っかかった作品の方が幸せな気がするから。

なぜ、「好き」はよくて「嫌い」は良くないんだろう。
食べ物だってパクチーを鬼のように嫌う人がいるけれど、私は否定しないし、どうでもいい。私が食べるから問題ない。

私は鰹のたたきも苦手。テングザルと違ってこっちには理由がある。子供の頃、恐怖で飛び起きるくらいの夢を見た、なぜだか鰹のたたきが、あれはなんていうのだろう?既に分解された円錐形の形のまんま、頭もないのにものすごい数で空を飛んでて、それが私をとことん追いかけて来る。逃げても逃げても、足がもつれて転びそうになっても、追いかけてくる。恐怖でしかなかった。本当に飛び起きた。
それから、敵視している。(これは本当に個人的なことです。鰹のたたき関係者の皆様、鰹のたたきが大好きな皆様になんら関係はありませんし、気分を害されたとしたら謝ります。ごめんなさい。)

大人になって何人かの年上の女性と一緒に食事に行った時、「どうして?すごく美味しいのに。」とわざわざオーダーされた。そして「美味しい鰹のたたきを食べたことがないから、そう思うのよ。食べてみなさいよ。」と。いるんだ、こういう人って。ここは街のご飯屋さんで、高知でもなんでもない。ましてやテレビで見たような港の一角でワラみたいなので炙って作ってくれたような、代物でもない。なのに、皿に乗った赤っぽい羊羹みたいな魚(羊羹は大好き)を「美味しい鰹のたたき」って勧められても、納得がいかないし、味とかなんとかが嫌いな理由じゃない。

リズムが違う。あなたが奏でる「おいしい鰹のたたき」のリズムと、私の中にある「恐怖に彩られた鰹のたたき」のリズムは、ベースとドラムが決まってなくて、なんならチョーキングが目指す音まで上がりきれてないのに、前に出過ぎるギターがいるバンドが奏でる音楽のようで、私には決して受け入れられない。

「嫌い」はそんなにいけないことなんだろうか。

挿入した絵画の前面部分が気になる方は、こちら☆


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?