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日航123便墜落事故(事件)・第77回〜昨年から話題になっている、事故当時の日本航空や防衛庁関係者らによる告発文。あらためて、順に検証してみるとして
織田祐二 昨年の5月ぐらいから一部で話題になっている、例の、当時の元関係者らによる告発文。今回はそれについて語り合いたい 相方(編集・ライター) 事故当時、日本航空や防衛庁で働いていた者らによる“ひとつの匿名アカウント”による衝撃的暴露の数々。いや、衝撃かどうかは、それらが真実であればの話ですがね 織田 あまりに内容が多岐にわたって入り組んでるので、ちょっとずつ考えてみたい 相方 仮想敵訓練云々については、陰謀論派の間では散々言われてきましたよね。あの事故の根本的キッカケは
日航123便墜落事故(事件)・第76回〜“政界のプリンス”加藤紘一氏は、なぜ、39年前のあの時、防衛庁長官を留任続投した(させられた)のか?
昭和時代、内閣における防衛庁長官というポストは、半年とか1年ぐらいで交代するのが常だった。内閣改造や首班指名選挙後に人が替わるのは、ごくごくフツーの流れだったと言っていい。 思うに、いや、誰でもわかることだが、それほど重要な役職ではなかったのだろう。省ならぬ庁であり、大臣ならぬ長官。大蔵大臣や外務大臣とは格が違う。未来有望な若手政治家が最初期の手始めに務める(務めさせられる)定番のポストだった。 そんな防衛庁長官という役職を、政界のプリンスにして自民党左派の要だった加藤紘
日航123便墜落事故(事件)・第74回〜事故調査報告書の経路とは異なり、静岡県の大井川より西を飛んでいたらしい123便。必然、そこから考えが及ぶこととは?
あの日、123便を静岡県の大井川より西の地域で目撃した人がいた。詳しくは、下のYouTubeを観ていただきたい。 本稿サムネ画像の青線が大井川。となると、コメントでやりとりさせていただいた某氏の言うように、 ということになりそうだ。 そうして、そうなると、頭に浮かぶことが一つ。焼津市(1985年当時は合併前で大井川町)にある航空自衛隊の「静浜基地」だ。 動画主が言うように、焼津市方面から飛んできて、大井川を越え、山を越えてきたというのであれば、その過程で機は確実に静浜
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日航123便墜落事故(事件)・第73回〜『ワタナベケンタロウ動画』最新回を視聴して思ったこと。なんでもお見通しの強国・アメリカが日本の言いなりになることは……?
『ワタナベケンタロウ動画』第160回を視聴(必見)。 ますますもって、その内容、検証は混沌としていってる印象。あらためて言っておくと、我が理解力の足りなさを踏まえてのものであるのは確か。 今回の動画は(も?)、いくつかのパートに分かれるが、筆者が特に気になったのが、9分53秒あたりから始まる、『日本航空史【昭和戦後編】』(1992年刊)なる著書の内容だ。123便墜落事故およびそれに関する膨大な調査、解析等を経て、事故調査結果に基づき、日本がアメリカの旅客機の耐空性基準に対
日航123便墜落事故(事件)・第72回〜問題となった機の最後部を担当した客室乗務員、対馬祐三子さんと大野美紀子さん。非番で乗り合わせた落合由美さん含め、彼女らについて考えたこと
123便墜落事故考証YouTuberの第一人者のワタナベケンタロウ氏は、Xでこう書いている。 相模湾上空でのインシデント後、機内最後部のR5ドアに異変が起きたのは、18時31分台とされる。 R5ドア担当の客室乗務員はスチュワーデス(役職名)の大野美紀子さん(26)。だが、おそらく、率先してドア付近の状況状態を調べ、コクピットに伝えたのは、L5ドア担当のアシスタントパーサー(スチュワーデスの上の役職)の対馬祐三子さん(29)と思われる。 機内の客室乗務員の配置を見ると、左
日航123便墜落事故(事件)・第70回〜1986年4月25日に開かれた事故調査委員会聴聞会で、日航・平沢専務が述べたことの真意とは?
1986年4月25日におこなわれた「事故調査委員会聴聞会」において、日本航空の平沢専務は以下のように述べている。 はたして、これはなにを意味するのか。その真意はなんなのか。 ひとつ踏まえておかなければならないのは、この会には、「日本航空」のほか、「圧力隔壁破壊が墜落事故に至る端緒」説に疑問を持つ日航関係者のグループ「日航乗員組合」の面々が参加していること。そうして、平沢専務は当然のごとく「日本航空」側の立場で答弁しているということ。この時点で両者の見解は100%真逆だった
123便墜落事故と同じくらい不思議な、昭和終盤を象徴する未解決事件「グリコ・森永事件」。あの事件で一番解せないことを挙げてみる
ライター・織田祐二 グリコ森永事件の終結宣言が出たのが1985年8月12日。そうして、その日の夕方に123便墜落事故が起きる 相方・ヤスダ 激動過ぎますよね 織田 ねえ。あらためて考えると、いや、考えれば考えるほど、この2つの事件はどこかでつながってる気がしてくる ヤスダ グリコ・森永事件の流れで脅迫を受けていたハウス食品の社長が123便に乗り、事故に巻き込まれました 織田 なぜ、彼が機に乗ったのか、不思議すぎる話 ヤスダ まあ、元々乗ることは決まっていたんでしょうが 織田
実話怪談YouTubeが直面した最大の問題? そして、限界? 依然、盛況続くそのジャンル、シーンだが、ここにきてチラホラ不穏な実情が??
ライター・織田祐二 今回はコラボ問題について話したいんだけど ライター・三橋りの(『週刊大衆』など) いまさらですか。暇空茜氏が係争した若年女性支援団体の…… 織田 いや、そのColaBoじゃあなくて、実話怪談YouTubeにおけるコラボの問題について 三橋 なんか、春ぐらいから動画にハマッてるって言ってましたよね。確か、noteにもなにか書いてましたが 織田 そう。好井まさおさんや松嶋初音さんの実体験怪談の怖さと語りに完全にやられてしまって、いろいろ観るよう
日航123便墜落事故(事件)・第68回〜123便のチーフパーサーを務め、死亡した波多野純氏。彼の同僚にして親友だった方のブログの内容が、あらためて、とても興味深いという話
日航123便にチーフパーサーとして乗務していた波多野純氏の同僚にして親友だった方のブログがある。 先だって、その中の一文に自分は感化され、不躾ながら、感想コメントにかこつけてある質問をぶつけたところ、丁寧な返答をいただくことができた。恐縮の極み。 前掲の氏のブログには、こんな記述がある。 123便事故に対する率直な疑問、および推論であり、元日航社員の記述としては、かなり踏み込んだものに思われるが、盟友の無念を思うと書かざる得なかったのだろう。 事故調査報告書を否定する
日航123便墜落事故(事件)・第67回〜同事故を語る際に決まって出てくる、中曽根首相(当時)の「真実は墓場まで持っていく」発言。あらためて、そんな発言はなかったことをおさらいしておく
はたして、その発言の出どころはどこなのか。123便墜落事故考証YouTubeシリーズ『ワタナベケンタロウ動画』では早々に「そういった首相の発言はなかった」ことに言及がなされているが、最近になっても考証動画やSNSのコメント欄などで、その発言の引用が目につく。 そうして、以下は、2019年11月のヤフーニュースにおける発言検証記事(この記事は最近知った。書き手は、ITジャーナリストの篠原修司氏)。 かの発言が、いつ、どこでなされたものなのか、結局、わからずじまいというのが実