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『ゆたかさ』は「普通」であること、そしてそれは時間が教えてくれる

#ゆたかさって何だろう

「ゆたかさとは?」と聞かれて、簡単に言葉にできないのは私だけだろうか。
私はいわゆる普通の家の一人っ子として18年過ごしてきた。小学3年の時にペットにコーギー(とても可愛くて抜け毛が多い)を迎え、中学2年の時に単身留学を開始した。

もう一度言っておく。
私は昔、自分のことをいわゆるどこにでもいる普通の人だと思っていた。
読んでいる人は「え、どこが?」と思っているだろう、18歳の私も「え、どこが?」と思っている。同じだ。

留学っておそらく普通じゃないのではないか。
ていうか、普通ってなに?
一般的で平均的なことを「普通」と呼ぶのか?
あれ、平均的か否かって誰が決めるの?

云々
考えを巡らせても無限ループで質問on質問していた。
しかし、私はあるとき気がついた。

「普通」って『ゆたか』じゃない?



「普通」であることは難しいことだと感じる。
大体誰が定めているのかもわからないし、物差しは十人十色、無限である。
だからこそ自分が可もなく不可もなく「普通」に生きていること、当たり前に何かしていることが、とても『ゆたか』だ

もちろん、最初からそう感じていたわけではない。
つい最近私の中で『ゆたかさ』を実感させる出来事があった。

まだ肌寒さが残るバンクーバー の弥生、
私はCOVID-19の影響で家のそばの桜並木さえみることができなかった。
なにもしない、できない春休みは初めてだ
最終学年になった高校も、休み明けに開くのかどうなのか
気を遣ってばかりで
鬱々とした二週間をホームステイ中の部屋で過ごした。

そしてある時、滅多に鳴らない私のLINEが着信音を出した

何だろう
と思いながら電話に出ると、馴染みある留学エージェントのスタッフの声

「休み明け全授業がオンラインに変わるから、日本に戻れるって!」

私の目に映るもの全てに明かりが灯されたようだ。
一本の電話から数日後、航空チケットを片手に東京に戻った。
冬に帰ってから三ヶ月が経っていた
いつもの変わらない家族が、嬉しそうに待っていた。


私にとっての長年の『普通』は、家族がいつもそばにいること留学をしたこと安心して外出できる日々のことであった。

しかし、留学してすぐに家族がいつも近くにいることは「ふつう」でも、当たり前でもなく、『ゆたか』だと気がついた。

留学して孤独な時間を過ごし、振り返るとふとそう感じる日がきた。

留学をすることも、「ふつう」でも当たり前でもなかった。
私には留学を決めたきっかけがあり、それは普通の事象ではなかったが、留学できることが当たり前ではなかった。
言うまでもなく『ゆたか』だった。

安心して外出できることも、つい数ヶ月前までは「普通」だし、当たり前だった。
感染症が外を歩けないほど流行った時期を経験したことで、過去の『ゆたかさ』を噛み締めることができる。



私は『ゆたかさ』は初めから誰もが知っていることだとは思わない。

例えば、毎日学校で給食が出ることを子供たちは「ゆたかだなぁ」と思っているだろうか?

そう思っている子供も少数いるだろうが、私が小学生だった時に給食を食べながら感じていたことは、せいぜい「給食美味しい〜」くらいだ。
給食は私のお腹が空いていようが、空いていなかろうが、学校に行けば出てくるし、それが「ふつうじゃん!」と思っていた。

その美味しい給食が出るゆたかさに、高校に進学するなど給食のない場所にいくとじわじわ感じることになる。

時間や経験を元に自分の中で『ゆたかさ』のスタンダードが構築される
過去を振り返り、今の自分がなにを持っているか、持っていないか、比べた時に「あぁ、とてもゆたかだったなぁ」と気づく
そして個人的には、その『ゆたかさ』に感謝し、丁寧に心に刻みたい



突飛なことをしていなくても
それぞれの生き方は「ふつう」ではなく、どこか『ゆたか』であることがある。
そして私はこの記事を通じて、そのような『ゆたかさ』を改めて見出し、かみしめたいと思う。


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