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人の幸せと自分の幸せを比べても結局は幸せになれなかった

ある人は私に言った。

『あなたは自分のことを不幸だ、大変な状況にいる、と言うけれど

世界にはもっと大変な人や、恵まれない人だっているの。

そんな人達のことを思えば、あなたの生活なんて全然楽じゃない。

そんな人達と比べたら、あなたがどれだけ幸せなのか、

そしてその幸せに感謝するべきなのか解るわよね。』


私には、この言葉の一つ一つがどうしても受け付けなかった。自分の今ある生活に感謝しよう、と言うところ以外は。


綺麗事ではありません、他人の幸せと自分の幸せを比べるのは無理です。
私にもし子供が二人いて、どちらの方が好き?と聞かれるくらい決め難いことです。

世界には様々な事情で苦しくて辛い思いをされている方が沢山いるのが事実です。それを蔑ろにするつもりは、ありません。

でも、他人の幸せを感じるセンサーと、私の幸せを感じるセンサーが、全く同じ様に作られてはいないと思う。
生活や住んでいる場所、これまでに感じてきたこと、生まれてから皆一つとして完全に一致する行動を起こした事はないはず。

無論、私は私であって他人ではないので正しくはわからないが、例えば私とあなたが同じものをプレゼントで受け取ったとします。
感じ方はそれぞれ違うはずです。


なぜ違うのでしょうか。
それは、きっと私たちが生きて、感じてきた一つ一つの体験が異なるからでしょう。生まれ持った感性や性格も違う。「嬉しい」と言う感情は同じでも、細分化された先は少し違うのではないでしょうか。

価値観の違いを無視して「幸せの度合い」を推し量るのは無理です。

価値観が違うと仮定しても、「幸せの度合い」を私の単位からあなたの単位に変換する公式はありません。


周りに物が溢れていても幸せでないと感じる人もいれば、周りに物があまりなくても幸せだと感じる人もいます。

根本的に、私がこの言葉の何が気に入らないかと言うと、その様な考えをしても自分も他人も誰一人として「幸せにはなれない」ところです。

私にはこの言葉が、

『自分よりも可哀想な人なんて沢山いる=下には下がいるんだから、自分の置かれている状況に満足したらどうなの?』

と言う様に聞こえます。


私は上を向いても、下を向いても、幸せになれないのです。
別の誰かの、幸福度定規を私に当てても、単位が違うんです。
自分のことが全く見られない状態で、自分のことを理解できないし、誰かを羨んでも、誰かを蔑んでも、私が幸せになる事はありません。

大体どうしたら、私よりも誰かが幸せか、不幸せか、解るのでしょうか。

もうすぐ結婚する誰かは、結婚する予定もない私より、幸せか。
彼らの人生で一番幸せな時間にいるかも知れないが、それと同時にどうしようもない不安に襲われているかも知れないし、彼らの心の見えない部分は私は知る由もないわけで、結婚しない私と結婚する誰かを比べられない。


誰かを見下す様な行動自体が好きではないし、誰かと自分を比べて安心するより、私が自分の中で一番納得できる生き方をしたいし、それが幸せかそうでないかは自分で決める。

誰かと比べて自分の方が優っているか考える方が、すごく失礼で、もし私がその様に考えていたのなら、私は一番不幸だと思う。
他の人のことを尊重できていないし、第一にその様な考え方は全く気持ちよくない。


そしてこの言葉を受けて強く感じたのは、他人が幸せか私にわからなくても、自分に余裕があれば大変そうな人や困っている人を少しでもサポートしたいし、その様にして誰かを支えることができる方が、他人を卑しめるより気分が良いと思う。

結局何もかも自己満足だから、自分がそれで幸せと思えば満たされるし、蔑んでも満たされる人はいるかも知れないけど、私はそれをしたくない。

今この一瞬でもしかしたら私のことを軽蔑して、自分の方が優っていると感じている人もいるかも知れないが、私は比較対象にされたくないし、反対に誰かを同じ様にしたくもない。

最後に、もし誰かにも幸せになってもらえる様にするには、自分が良いと思ったことをするしかない、エスパーにはなれないから。


これほど腹が煮え繰り返りそうになった発言を受けたのが久しぶりで、一人では抱えきれませんでした。
自分の軸さえあれば、こんなことを言われても、上にあげたことを思ってスルーできていたのかも。
でも、沢山考えを巡らせる機会をくれた事はよかったのかも知れません。


人の幸せと自分の幸せを比べても結局幸せになれなかった。

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