なぜ、作られたものに意味を求めてしまうのか?
東京に帰省がてら、久しぶりに森美術館に行きました。
現在、逍遥学派の次の場をつくるために広島県の北部に物件購入を検討している途中で、そこをどんな空間にしていこうかメンバーと話し合っており、現代アートの視点と体験がヒントになると考えていました。
今のところその場所に # をつけるとしたら、下記のような感じです。
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私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために
環境危機に現代アートはどう向き合うのか?
2023.10.18(水)~ 2024.3.31(日)
経済成長と共にあった環境汚染やその被害に対する抗議の作品も多く展示されていました。
社会に対して問い、抗議するような作品は、時代背景と環境汚染からくる、その悲惨さと照らし合わせながら鑑賞すると、
人間が無意識に集団としてしたことに対しての愚かさを痛感すると同時に、自分が今行っている「当たり前」を問うことが、いかに必要な態度であるかと教えてもらっているように感じます。
その作品にどんな意味や意図があろうとも、もしくは意味などではなく、その社会に対しての抗議として、その形を成しているものに意味を問うのではなく、そのままを受け取ることはどうしたらできるのだろうか。
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美術館を歩きながら、
平面、立体物からインスタレーションまでさまざまな作品が並んでいる中、
そういえば自分が「美術館」というものが苦手だったことを思い出しました。
学生の頃から課題でギャラリーなども行ったりしたのですが、どうにも没入したり、作品に静かに向き合うことができずにいました。
それはなぜなのだろう?
と久しぶりに行った森美術館で気がついたのが、
しかし実際は、長いキャプションを読んだ後に
ちょっとおまけ的な感じで作品を「見て」しまうだけになってしまうこと。
自分は一体何を見に行ったんだろうか…という気持ちになってしまうことが多いのです。
かといって、作品だけを「ただ見て」いると、それはそれで一体今何をしているのだろうか?と入り込むことができない。
私は今までデザインの仕事をしてきたので、
なぜそれをしたいのか?なぜそれを作ったのか?問われることが多く、
なんでその色なのか、その形なのか、その書体なのか、その写真なのか、なぜその構図なのか、なぜその要素なのか、、、
と、ついつい作品に対しても問うてしまう癖があるのだと思いました。
「意味」とは、聞いた側にとって腑に落ちるものだと賞賛され、それって何の役に立つの?と思われると価値がないものだと判断されてしまう。
学校にいても、会社にいても、なぜそれをするのか?
と自分のしたこと、これからすることに対して一々責任を取れと言わんばかりに意味を求められてきたので仕方ない癖なのかもなとも思いました。
小学校の時、ちょっと偉そうな怖い先生が、(理由を説明できればいいという意味で)言い訳ができれば許してやる。と言っていたことを思い出しました。
そんなことに囚われることで、自分の中にある「美しい」「かっこいい」「なんかいい」を奪っているのではないかとハッとした時間になりました。
そして、まさに逍遥学派がやろうとしている美術教育というものも、
そんなものはお金にならない。誰が必要とするんだ。と言われがちですが、
私は、大体の人を豊かにするのものだと思っていて、ただそれが化成肥料を撒かれた野菜が急に大きく育って、大きい野菜が取れたね。
という話ではないので「結果」がすぐに見えないものは、理解され難いのだなと思います。
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それでも、私たちは美しい景色やおいしいご飯を食べた時に思わず、心を動かされてしまうこともある。
日常にある、そういった小さな感動を少しずつ拾っていければ、それでいいんじゃないかと。
美術作品も同じく、景色や料理のように、自然と人との間に生み出されたものなのだから、自由に受け取れるようになったらいいなと思いました。
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