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【ショートショート】君に

「死というものは、とるに足らないものである。それについて何かを憂いたり、あまつさえ期待したりするということは、たいていの場合は無意味なことである。それにもかかわらず、次のようなある種の主張はなお広く支持されているように僕には思われる:自分が死ぬ、または、誰かが死ぬということにおいて、我々が死ぬまさにそのときや、我々の死後に関することについて──はからずも、それに何らかの感慨を覚えるような仕方で──何かを考えることは重要なことである、というもの。しかし、そのような主張とは、それを述べる人々のうちに、何か死に関するある種の誤解が生じている、ということによってそれがなされているものであるように思われる。
 このような誤解を取り除き、死とは何かという問いについて、わずかにでも詳細かつ説得的な回答を与える──すなわち、死は我々にとってとるに足らないものであるという事実を、万人に対して理解可能な仕方で提示する──ことが、今においては必要なことであるように僕には思われる。
 死はいかにしてとるに足らないものであるのか? この問いに対する説得的な回答は、次の主張を認めることによって示されることとなる:我々は、現在において我々を構成しうる一切のものを、我々の死後においては維持することができない。我々の死とは、我々の消滅であり、かつ我々の喪失である。そうであるならば、我々の死後における我々に関するしかじかのことについて何かを語ることに、いったい何の意味があろうか。我々は我々の死に対して何かを求めるべきであろうか。
 ここで、我々の死後に残ると思われ、かつ我々に関する唯一のものを挙げるとしよう。ほんとうはそのようなものなど残りえないということを、ここにおいて示したい;図らずも、ここで僕は我々の死後における我々に関するしかじかのことについて何かを語ることになってしまうのだが、それなしにはこのことが示されえない、ということもまた事実である。そして、これを示すことによって、死が我々にとってとるに足らないものであるということを帰結しよう。
 我々において、一切の生命活動が停止しているにもかかわらず、なお我々が死んでいないと考えるとするならば、それはいかにしてか? 次の一連の主張はその理由を提示しうるのかもしれない:我々の死後、我々はなお“続く”ことになる。なぜならば、我々の魂は残るのだから。
 この考え方は果たして妥当なものであるのだろうか? さきの主張より明らかなように、僕にはそうは思われない。この主張の正しさは、さきに提示したような、我々の魂の存在の可能性についての議論を徹底的に排することによって示されるだろう。
 魂についての次のような定義づけは、魂についてしかじかのことを信じる人々が持っているような、魂に関するある種の直感に著しく反するものではないように僕には思われる:魂とは、我々の意識を担うような、非物質的な存在者である。
 さて、次の問いについて考えてみる:我々の死後、我々の魂が残るということはいかなることでありうるのか? さきの魂の定義が妥当であるならば、次の主張は許されるだろう:我々の死後において我々の魂が残っているということは、我々の意識が非物質的な仕方において我々の死後も残っている、ということである。しかし、この主張が意味するところのものが正しいならば、ここにおいて、我々が死を経験したということはほんとうに正しいのか?
 次の主張は検討されるべきだ:我々の死後、我々の魂がほんとうに残っているのだとしたら、そこにおいて述べられている我々の死とは、単に我々が我々の肉体との関係を喪失した、ということ以上のものではないように思われる。我々の死後において、もし我々が魂なる何らかの非物質的な存在者としてこの世のことをある程度生前と同様に経験することができるのであるとしたら、果たして何が死んだのであろうか。もしかしたら、その魂なる実体は、普段我々が携わるような物質的な世界における何らかのものに触るようなことはできずとも、その世界について何かを見たり、聞いたりするといったようなことはできるかもしれない。しかし、そうであるならば、ここにおいて死という言葉は何を意味するのであろうか。我々が生前のように“続く”のだとしたら、我々が死ぬという事実は、我々そのものが消失する、ということではなく、我々の肉体との関係が消失する、ということに他ならない──そして、それにすぎない──ということになってしまうのではないか。
 我々が死ぬということが、単に我々の魂が我々の肉体との関係を失うということに他ならないのであれば、そのことによって、魂の存在を支持する人々には次のような不都合が降りかかることになる:彼らは、肉体はなんのためにあるのか、という問いに十分に答えることができない。なぜならば、さきの仮定が正しいならば、我々が行いうる、知覚に関するおよその活動は、我々の魂のみによって行われることが十分に可能であるということになってしまうからである。我々において我々の肉体だけが現に動いている、というナマの事実は、少なくとも僕にとっては非常に奇妙なことのように感じられる。
 残念なことに、さきの帰結は次のさらなる不都合を招き寄せることになる:我々の魂は、その居場所を選ぶ必要が一切なくなってしまう。つまり、きみの魂についても、僕の魂についても、それらがそれぞれ今どこにいるのかということを問うことが叶わない、ということだ。さきの議論によって導かれた帰結とは、我々の魂とは、その知覚の活動においてはほんとうは我々の肉体など必要としないような非物質的な存在者である、ということであった。しかし、そうであるならば、我々の魂が我々の肉体を好き好んでその居場所としなければならない理由はない、ということは妥当であるように思われる。言ってしまえば、我々の魂などどこにあってもよいということだ。
 しかし、この想定は、魂が我々の意識的な活動および経験の主体であるというさきの仮定に反することになるように思われる。なぜならば、我々の知覚は、我々の肉体からはるか遠く離れて存在していてもおかしくないという帰結がさきの議論から導かれたにもかかわらず、そのような知覚はいついかなるときも我々の肉体に限りなく近い場所に存在するように思われるからである。たしかに我々は、現に我々の肉体において我々の経験を享受しているように感じる。
 しかし、それならば、我々の肉体と魂とは、いかにして結びついているのであろうか? 居場所を選ばず、かつ我々の経験の主体であるということは可能であろうか。この魂と肉体との関係について、我々は次の2つの態度をとることができるように思われる:我々は魂と肉体との関係についてあまりにも無知であるということを認めるか、そもそも魂など存在しないと帰結することだ。
 ここで最初の命題に立ち返ることになる:死とはとるに足らないものであり、死について語ることは無意味なことである。そして、さきの二者の態度のいずれをとっても、今やこの命題が正しいということを認めなければならないのだ。
 その理由を語ろう。まず、前者について。もし魂と肉体との関係について我々が無知であるならば、そこにおいて語られることの一切が絵物語であるということを認めなければならない。なぜならば、我々がそのことについて無知であるがゆえに、それらにまつわる言説の妥当性を保証するための一切の根拠を用意することが叶わない、ということになってしまうからだ。
 それでも、きみはこう言うだろう:私たちが魂について何かを知っているかということと、実際のところ魂がどうなっているかということとはまた別の問題である。それでは、実際にきみの体を切り裂き、その中を探すことにしようか。きっと、魂なるものの存在どころか、その魂ときみの肉体とをつなぐようないかなる器官をも発見することは叶わないだろう。
 そして、後者についてその理由を語ろう。そもそも魂など存在しない、ということを認めるならば、ここで我々は、死という言葉を定義しなければならないのであろう。死とは、現在において我々を構成しうる一切のものを、我々において失わせるものである。
 さて、一連の主張でもって、死がとるに足らないものである、ということは十二分に示されたように思われる。僕たちにおける死の後には、僕たちに関するものは何も残らないのである。だから、そのことに関して何らかの感慨を抱いたり、あまつさえ憂いたりして死を弄ぶことは、ほとんどの場合は有意義なものではないのだ。……なのに、なのにどうして、きみは死んでしまったんだ。きみは、死ぬことに何を期待したんだ」

 血まみれの壁に静かにもたれかかる彼女の首元には大きな赤い傷があり、手には刃物がやわらかく握られていた。
 男は彼女の手から包丁を取り、同じように自分の首筋に当ててのちにくずおれた。


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