美しさへの耐久性
11月はまもなく去ろうとしていた。
私は倫理を捨て、甘美へと邁進していた。
倫理観は以前出会った人々からの贈り物でもあった。私は綺麗に包装された箱の中の全てを喜んでいた。いつしか部屋は贈り物で埋め尽くされ、新しい人からの贈り物を、中身も確認せぬまま遠慮して受け取らなかった。
私たちの日常には、限りない贈り物が沢山ある。それを必要と不必要とに分別し、日々捨てたり管理したりと忙しいのだ。だからこそ私は誰とも合わず、表面上の部分的な文字や音声のみに情報量を絞っていた。私の頭脳の容量は少ない。それに加え制御不能である感情の起伏により、脳のおおよそは埋め尽くされがちだ。誰かを大切にしたいという気持ちはこの波に呑まれ、いとも簡単に消え去る砂浜に描いた絵の様だ。
だからこそ、沢山あるものの中からこれが一番と思える勇気くらいは持っておきたいものである。
未来志向な、また心配性でネガティブ思考な私の性格上、将来への不安を語る事は多くなった。しかし、これも今となっては足枷である。
未来という未知はまだ誰にも触れられていない汚れのない空白である。そこに理想を描いてみたり、経験則からくる情景を描いてみたり、ここでも信じることが求められてくる。
何も信じられなくなったのなら、何も描く事のないままに未来へ飛び込んでみようと思った。
そしてそこで起こった事をそのまま見ていればいい。
何かに縋りたいという気持ちが私には少し足りない様な気がした。しかし手を差し出された時、その手を取るのかどうか。手を取る事で相手を自分の渦の中へ多少巻き込む事もあるだろう。そして相手の渦を知る事にもなるだろう。
まるで漂流記のような物語が出来上がるだろう。
こうしてまた流れている現象の掴んだところだけが、形ある物語へと変化していく。
タイトルにある美への耐久性とは、掴み取れる美の大きさや形は人それぞれ違うという事である。
だからこそ、私とは違う未知な世界観で生きている人に惹かれているんだと思う。その人を知って、「我思う故に我あり」をしたい。
私にとってそれは最も美しく、幸せな事なのかも知れない。だから本当はもっと知りたい。
たとえ地獄に堕ちても知りたい……そう悪魔が囁くのだ。私は悪魔と闘うしかないと思う。大切な人の幸せを守るなら、この知的好奇心という悪魔は……
美しいものは最も恐ろしい光。
私は悪魔を倒したいが、どうやらその悪魔には一生勝てないのようなのだ。だからこそ、悪魔を味方にし、仲良くする方法を考える以外に生きる道はない。
美術とは、芸術とは、殺意が込められた呪いである。その殺意に目が眩まぬよう、美に動じぬ心を養う事は大切ではないだろうか。
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