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ADHDっ子・完

途中まで書いて、そのまま放置していることがとても心に引っかかったまま。

だから、取り合えず「完」ということで最後にその後を綴っていこうと思います。

これで過去の記事は最後になるのでだいぶ長文です。

時間のある時にゆっくり読んでいただければと思います。


これまでの振り返り

中学3年生になり、受験も本格的に考えないといけない時期に差し掛かった5月。

そんなタイミングで3LDKで家賃も安く、日当たり最高な部屋をたまたま見つけて急遽引っ越しをすることにしました。

これで長女の部屋を用意してあげられる。

受験に向けて集中できるし、下の子たちも自分たちのスペースを確保してあげたかった。

とてもいいタイミングでいい部屋を見つけられたことが一つの光になりました。


長女の癇癪も相変わらず。

今までと変わらず夜の10時過ぎに夜に暴れるので、特に敏感な次女は泣いて起きてくる日々。


何かに当たらないと気が収まらない長女。

引っ越したばかりの自分の部屋のドアに早速ドカンと穴を開けてくれました。


壁よりはいいか…。


私自身もある程度免疫がついていたので、長女に提案をしました。

「イライラしたら、そのドアブチ壊していいよ。もし引っ越しすることがあれば直さないといけないけど、このドア一つならどうにかなる。だから他は壊さないでね!」って。

たまに壁を殴っている時もあったけど、破壊するのはドアだけに収めてくれました。

あえてイライラをぶつける場所を与えてあげることは長女には良かったみたいです。

反抗期の男の子の部屋でもこんなにならないだろうな…てくらい、長女の部屋のドアは穴だらけになっています。


私は変わらず心療内科に通う日々。

薬は増えていくし、仕事の成績も悪い状態。

心療内科に通い始めて1年経過したところで、私自身も一つ気分転換のために会社を休むという決断をしました。

傷病手当をもらい、それだけでは生活できないので市役所に相談して生活保護受給者になりました。

自分の中ではとても不甲斐ない決断だったけど、そうするしかなかった。


高校受験

中学3年生になり、そろそろ本気で受験に向けて考えていかないといけない時期になりました。

長女は行きたい高校はある程度決めていて、でもそこに行くための学力が全く足りない状態。

だけど、中学では勉強できなくても進級出来ていたので、学力が足りないと高校に行けないうことが自分事として捉えることは難しいのでした。


私はとっても焦っていました。

普通の高校生活を送ってもらいたい

自分が行きたい高校に合格するという達成感とか、制服を自分たちなりにおしゃれして着て、多少先生に怒られようが、それはそれでいい思い出になるはず。

ちょっとの努力でそれが叶えられるのに、全く他人事のようでした。

なんだかんだ行けるでしょ!と思っていた長女。


2学期になって、相変わらず学力が足りない長女に、担任の先生は自分のレベルに合った高校を勧めてくれていましたが、長女の志望校は変わらず。


我が家は母子家庭なので、私立に行かせてあげる余裕はない。

志望校に落ちて、じゃあ私立の滑り止めの高校でもいいか!

って言ってあげられない私がいたので、とにかく公立の高校に行ってもらわなきゃ!って思っていました。


三部制の定時制高校もありましたが、正直合格ラインが成績だけではない上に倍率もそこそこ高かったので、確実に行けるという保証がないから何とも言えない様子の先生。

悩みに悩んで、私もいろいろな学校を調べまくっていました。


いよいよ願書提出日が迫ってきた時の三者面談。

長女の成績を見て、長女の志望校には程遠い学力。私と先生の説得の結果、地域では一番下の学力の高校を受験することになりました。

そこですら正直、行けるか行けないかギリギリの成績。


そこがもしダメだったら二次募集でエンカレッジ高校も視野に入れてはいました。

ただ、いろいろな問題を抱えて普通に中学校生活を送れなかった子が集まるような学校。キラキラした高校生活をイメージしている長女は自分の発達障害を受け入れられていない状態でその学校に行って馴染むことができるのか不安でもありました。


受験が終わり、合格発表の日。

友達親子と一緒に高校へ。


ドキドキしながら長女の受験番号を探す…






あった!!!


長女の受験番号が掲示板にあったのです。


思わず、長女と抱き合って泣いてしまいました。


難関校の受験に合格した親子みたいな状況に、泣きながら笑ってしまいましたが…

今までの張りつめていたものから解放された瞬間でした。


長女の高校生活が始まりました。

ここからは自分の力で頑張らないといけない。

今までの「何とかなる」は通用しないということをどれだけ理解していたのかはわかりませんが、まぁ、テスト勉強はしないし、赤点取ってくるし。

クラスで一番下から2番目の成績。

長女はなぜか「一番下ではない!」っていう安心感を持っていて私も焦る焦る…


正直、これまで長女にほとんどの時間を費やし、下の子たちは放置気味。


長女にはダンスや塾、タブレット学習。

私なりに頑張って習い事もさせてあげて、下の子たちに習い事をさせてあげる余裕のない生活をしていました。

そろそろ私の意識を下の子たちの向けてあげたい。

そろそろ安心させてよ…

そろそろ自分の行動に責任を持ってよ…


って思っていました。


これからは中学のようには甘えていられないことをうるさいくらい話す私。

なんだかんだ受験に合格してしまったから、なんだかんだ進級できると思っている長女。

高校1年生になってからも結局は安心できない日々。

2学期になり、進級ができないかもしれない状況に。

その中でも担任の先生はどうにか進級できるように頑張ってくれていました。


でも、長女はそれほど焦っている様子もない日々が続く。


3学期の成績で進級が決まる。

そんな時期でも長女は勉強をしませんでした。

しなかったというより、なめていた。


3月の頭に進級できないことが確定。

また一年前と同じように転入できる学校を探さないといけない状況になりました。

今まで取得した単位で探す学校も絞られてくる。

試験日もそう多くはないので、早く決めなければならない。

通信の学校は省きました。

学校に行っていても勉強しない人が通信で頑張れるわけがない。

出来れば昼間通える学校を。

高校の担任の先生とも何度も面談して、とにかく卒業することを目標に学校を探し、どうなるかはわからないけど3部制の定時制高校を受けることにしました。

受験日まで2週間。

その2週間の長女は…

焦ることもなく、勉強なんてやらない。


ここまで来てもできない。

この子は一体どうしたら「頑張る」っていう意識になるのか謎でしかありませんでした。

試験はもちろん不合格。

わかっていました。


もう、私も諦めそう。

もうめげそう。

高校の先生は春休みも返上で長女のために諦めずに次の学校を探してくれているのに、当の本人は何を考えているのか焦りもせず、私や先生にまかせっきり。


3月も20日を過ぎ、もう転入試験を受けられる学校もなくなってきた。


途方に暮れる中、担任の先生とは毎日電話で相談する日々。


そんな中、通っていた高校の定時制の校長先生に先生が掛け合ってくれていました。

「最終手段として、ここの定時制を受けてみない?テストと面談はあるけど、テストも本当簡単なものだから多分大丈夫だと思うの。」って。


もうね、私は涙を流しながら先生に感謝しました。

そこで、長女の意志を確認するために急遽次の日に長女と共に全日制の校長先生、担任の先生、定時制の校長先生、担任になる先生との面談をすることに。

そこで定時制の説明をされて、長女の意志を確認。

定時制で頑張る。

という長女。

別の日に定時制のテストと面談を受け、その日に担任の先生から「合格」の連絡をいただきました。


その日は3月30日でした。


怒涛の一か月。


正直、私が仕事をしていたら絶対付き合いきれなかった。

本当にギリギリまであきらめずに頑張ってくれた先生に感謝しました。

泣きながらお礼を言いました。


もう!!どこまで手がかかるんだ!!!


長女にも「どれだけの人があなた一人のために頑張ってくれたか、どれだけ時間を費やしてきたか、感謝して絶対に卒業しなさいよ!!!」ってお説教しました。


4月から定時制高校の2年生に

定時制高校に転入して、制服での登校から私服で夕方からの登校に。

正直、昼間長女が家にいることは私にとってはもの凄いストレスでした。

生きていることで精一杯。

精神安定剤、抗うつ薬の飲む種類も量も増えていて、何も考えたくない。

全てのことがだるく、体は鉛のよう。


昼間は長女がいて、長女が家を出るころ下の子たちが帰ってくる。

そして下の子たちが寝たころ長女が帰ってくる。


少しでも一人の時間を過ごしたかったけど、そんな時間のない日々に私の体調も悪化していきました。


それから2カ月くらいして、長女は昼間バイトを始めてくれました。

長女がバイトに行っている時間はやっと一人の時間ができる。

ただただ何もせず、ゴロゴロと寝てる日々。

だけど、買い物とか最低限のことはしないといけないからなんだかんだ休まらない日々。

なかなか体調が良くなることはありませんでした。


そんな長女は定時制に転入して、制服を着れなくなったこと、普通の高校生としての生活ができなくなったこと、今まで遊んでいた子たちとは遊べなくなってしまったこと。

今まで当たり前だったことが当たり前じゃなくなった現実を少しづつ受け入れられるようになりました。

学校の勉強も、全日制に比べたらだいぶ楽になったようで、その点でも長女のストレスは減っていったと思います。


自分がADHDという発達障害であることを少しづつ受け入れ始めました。

そこから長女が家で暴れることも減り、自分が苦手なことに対して向き合えるようになって、こういうことが苦手だからこうしてほしい。

と、自分の思いを伝えてくれるようになりました。


自分の苦手なことに対してどう向き合うか、自分がいろいろな思いをしてきたから相手に対してどうしてあげられるか…

いろいろなことを自分なりに考えて、私にもいろいろ相談してくれるようになりました。


定時制に移って、とても精神的に成長しました。



母として、普通の高校生活を送ってもらいたい一心で必死だったけど、その子のレベルに合わせた学校選び、環境。

そこを大事にしてあげることが結果的にその子のためになるんだと、私自身もとても勉強になりました。


沢山戦い、沢山泣いて、共に成長してきた長女は今年で20歳になります。

今では私の悩みを聞いてくれるくらい成長しました。


先日無事、高校を卒業。

コロナの影響で保護者も在校生も出席できない卒業式でした。

それはちょっと残念だったかな。

でも、出席してたら一人で号泣してたと思うからそれでもよかったのかも?(笑)

定時制に移ってから始めたバイトも先日、最終日でした。

元々明るい性格の子なので、バイト先にお客さんとして行ったときはパートさんからは沢山褒めてもらい、私が恐縮してしまうくらい。

せっかちな性格が功を奏して、バイト先では手際よくお店を回していたようで、みんなに惜しまれながらの最終日になったようでした。


自分の気分のムラとの向き合い方など、本人なりにまだまだ課題はあるようですが、自分なりに家族との付き合い方、周りの人たちとの付き合い方を考えているようです。


いっぱい戦った分、私が同じ年の頃よりもまじめで大人かも?

なんて思うこともあります。


コンサータは高校生になってからストラテラへ変更してもらっていました。

定時制に行ってからはストラテラもほぼ飲まなくなりました。

薬に頼らなくても、自分を自分で受け入れることで自分のことをコントロールする努力ができるようになってきました。


発達障害の程度が低いからと、ずっと伝えず、中学生になり手に負えなくなってきてから伝えてしまったことは私の落ち度かもしれません。


もっと頭が柔軟な小学生のうちに伝えておけばもっと違った未来があったのかもしれません。


でも、これが私の子育ての結果。


発達障害の子を育てる親は、必ず子どもと真正面から向き合う時期は来ます。

それが早い段階なのか、大人になってからなのか。

それはそのご家庭それぞれです。



必ず明るい未来は来ると思って、絶対この子を幸せにしてやる!!って思って、乗り越えて欲しいと思います(*^_^*)


母よ!強くあれ!

頑張ったら頑張った分、未来は必ず明るいです✨


4月からは社会人。

沢山壁はあるだろうけど、彼女本来の明るさで笑顔で乗り越えていってほしいなと思います。


母として、沢山の事を学ばせてもらいました。

母として、沢山の成長をさせてもらいました。


お互い頑張ったね!

ほんとに戦った。笑


私の元に生まれてきてくれてありがとう。








最後まで読んでいただきありがとうございます☆頂いたサポートは子ども達の笑顔のために大切に使わせて頂きます(*^^*)心からの感謝をあなたに…...♪*゚