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今年はソクラテス! (3)


  3

わたしは前節でこう書きました。

「ソクラテスとプラトンという師弟の一対についてボンヤリ考えているときに、云々」

しかしこれだと、わたしにはボンヤリ考えられるだけの知識がそれなりに備わっているみたいですが、そういうことはありません。

わたしは古代ギリシアの古典にこれまで特別の関心を持ったことはなく、読んだ本(もちろん日本語訳)もプラトンの『饗宴』と『ソクラテスの弁明』、それにソフォクレスの『オイディプス王』だけです。いずれも十代の終わり頃に背伸びの気分で無理やりに読みました。

『オイディプス王』はその後三十代に一度読み返しているのでそれなりに覚えていますが、『饗宴』はごく一部をのぞいてみんな忘れ『ソクラテスの弁明』に至っては何も覚えていません。

それ以外の古代ギリシアの古典については、日本人のために書かれた哲学の入門書などの中で触れられていた事柄を、あたかも前々から知っていたことのように思い込んでいるだけなのです。その一例がソクラテスは書物を書くということに関心を示さなかったのに対して、プラトンは早い時期から書いていた……ということです。

だからこそ、昨年の暮れ
「じんぶん堂」というサイトで以下のことを知って仰天しました。↓
https://book.asahi.com/jinbun/article/14004232

わたしはプラトンが敬愛する師の言葉を、対話篇を通して出来るだけ忠実に、実際に語られた通りに記述しているのだと信じ込んでいました。

ところが上記のサイトでは、東京キリスト教神学研究所所長をなさっている八木雄二さんという方の著作『ソクラテスとイエス ー 隣人愛と神の論理』(春秋社)を紹介しながら、プラトンの著作についての驚くべき事柄が指摘されています。

(あくまでもわたしにとっての「ビックリ」であり、こ
れをすでにご存知の方々はたくさんたくさんいらっしゃ
るでしょう)

それはディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学
者列伝』には、生前のソクラテスがプラトンについて呆
れていたという記述があることです。

★「おやおや、この若者はなんと多くの嘘偽りを私に
  ついて語っていることだろう」

伝聞の体ですが、ソクラテスは自分が言ってもいないこ
とをプラトンが書いているのに苦笑していたらしい。そ
れはプラトンが自分の書いた『リュシス』という作品をソクラテスの前で読み上げた場面の話だとか。

ご本人の前で堂々と読み上げていたのだからプラトンに
なんの邪気もなかったはずだ……という弁護も可能でし
ょうが、実際にソクラテスが呆れ気味であったのなら、
やはり話すことと書くことの隔たりについて考えざるを
得ません。

では、ここから
「ソクラテス⇔プラトン関係」
を自分なりに見直していくのに当たって、具体的にどこ
にとっかかりを見つけていこうか……と考えてみて、わ
たしは
(やっぱり、『ソクラテスの弁明』を読み直すところか
ら始めてみよう)
という気になりました。

〈続く〉

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