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今年はソクラテス! (5)

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(前節からの続き)

つまりわたしたちから見ると
(そこまでやる必要はないでしょう)
と言いたくなるものがソクラテスには満ち満ちている。

あなたみたいなやり方では相手を怒らせ恨みを抱かれるのも無理はなく、『ソークラテースの弁明』に書かれているのが実際にあなたの言った通りであれば、あなた自身も十分にそれを自覚しているのだから、なぜもう少し別のやり方を工夫しないのか? わたしたち日本人には、あなたが懇切丁寧な説明を重ねれば重ねるほど
(結局は傲慢、少なくとも異様に頑固なんじゃないの?)
と思われてくるのをどうすることも出来ない。

けれども同時に、西洋人の哲学的な考察や振舞いに関する本を読むときわたしは自分の中にすぐに働き出す根強い
(倫理変換)
あるいは
(心理変換)
ともいうべき傾向があることもハッキリ感じています。

これは一番突き詰めた形で言うなら
(理屈で自分が正しく相手が間違っていても、だからと言って直ちに相手を傷つけて良いことにはならない)
という態度です。

気持ちの問題がある……と言っても良いのでしょうが、
恐らくこれはわたしたちが論理的な言葉の働きに非常に傷つきやすく、たとえばここにAという人物の論理的に正しい指摘と

論理的には曖昧だが相手を傷つけない配慮のあるB氏による指摘とがあれば、日本人の大半は自分が傷つけられないほうの指摘をより好ましいものと認める(ことばで気持ちを踏み付けにされるのは嫌だから)。

それは心理上の瑣末な問題のように見えて、実は哲学というか、人間の真実(本当のところ)を求める思考一般の根本にまで間違いなく届いている、無視のできない事柄です。

わたしたちは自分が直接の対象にされなければ、明快な論理で誰かがバッサリ切られるのを
(容赦がないな)
と思いつつまだ許せます。たまたまそれが生意気な人物で常々気に食わないと思っていた場合などには
(ざまあみろ)
とさえ思うでしょう。

けれども、自分が当事者でそれをされたならカッとしたり、憤慨して怒りに熱くなる。

ではそれは、ソクラテスに
(知恵があるわけではない)
と論破されてしまった当時のアテナイの
(ひとかどの人物と見なされていた人たち)
とどう違うのか? あるいはまったく同じなのか?


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