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好きなものを「好き」と言えない心について


いつの間にやらハーフクォーターにまで達していた東京西側放送局。しばらくぶりに配信後記を書いてみる。今回の放送局で話したのは、「ポップスの歌詞の分析ってできるだろうか?」という話だった。冒頭では特にAdoの『うっせえわ』についてあれこれ考察らしき会話をしている。

Spotifyでも聴ける。

歌詞の分析に関する話は放送本編に譲るとして、唐突ではあるが、僕は自分の好きなものをおおっぴらに「好きだ」と表明することが非常に不得手な人間であることを告白する。

初回放送でもやった「自己紹介の難しさ」にも重なる部分がある気がするけれど、僕が「好きだ」と言ったものを通じて僕の内面を「解釈」しようとする意識の動きみたいなものを感じ取ってしまうのだ。その意識が本当に働いているか否かはもはやどうでもよく、僕には人がそうしているように「見えている」。そしてその働きが僕には恐ろしい。

たとえば、僕は椎名林檎が、東京事変が好きだ。他にも好きなミュージシャンはいるけれど、一番好きで人生かけて聴いてきているのは椎名林檎だけである。

たとえば、僕は村上春樹の作品が好きだ。その他にも好意的に見ている作家はいるけれど、やはり「一番」と問われたら村上春樹をおいて他には挙げられない。

僕としてはいたってニュートラルに(それぞれを推す気持ちは全くニュートラルではあり得ないけれど)「好きだ」と思っているに過ぎないのだけれど、他人に好みを話してみると「あーw」という嘲り半分の反応を受けることがままある。別に椎名林檎や村上春樹に限った現象ではないだろう。たぶん、世の中、ありふれた話なんだと思う。

レッテル貼り、カテゴライズ、ステレオタイプ、まあなんでも良いのだけれど、そういう「1+1=2」的な解釈を受け続けていると、こちらはこちらでお前らそれ以外の反応できねえのかよ猿コラと思うことになる。もちろん僕は理性ある、抑制の効いた、韜晦を旨とするオトナなのでそんな感情はおくびにも出さないのだけれど、やはりダルいものはダルいのだ。

「村上春樹ってアレやん、射精するやつ」とかしたり顔で言ってくる猿に対して毎回「作中に射精が登場する程度でハシャぐなカス」とか言ってられないし、「椎名林檎ってあんま聴かないけどヘンだよね」とか言ってくるバカに無罪モラトリアムから強制的に貸し付けることもしていられない。

だから結局あんまり人に「僕はこれが好き」と表明することをしなくなった。

どちらかというとスネているのは僕の方であることはわかっているけれど、好きだと表明したものに、嘲りの感情が返ってくるかもしれないと思うと、それは、普通に怖い。なにが怖いって「お前は俺たちとは違うものだな」という爪弾き感が怖い。

別に作品を嘲られることそのもののショックは、さほどでもなかったりする。人の好みはそれぞれなのだから。

アレが好きコレが好きと仲間内でワイワイ盛り上がるのが楽しいということくらいは僕だって知っているが、その場の盛り上がりにくべる薪には向かないものだってある。無理やり火をつけようとしたところで、煙たいばかりで一向に暖まらないのだ。

いつもの通り何を言いたいのか分からなくなってきたところで、そろそろお開きにしておこうと思う。

最後に一つだけ何か言うとするならば、村上春樹の『パン屋を襲う』と椎名林檎の『この人生は夢だらけ』が、僕のオススメだということくらいだ。読んで、聴いて、好きだったり好きじゃなかったりすればいい。そしてそれを表明しないこともまた、ひとつの選択なんだろう。



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