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短編

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自作の短編小説をまとめたマガジンです。
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記事一覧

小指

 路地裏にぽっかりと口を開けた階段を下り、行きつけの喫茶店に入ろうとしたぼくは、店の扉の前に小指が落ちていることに気が付いた。ぱっと見、大ぶりな白い芋虫のようにも見える。

 若干気色悪かったものの、ぼくはおそるおそるそれを拾い上げた。触れてみると意外なほどひんやりとしている。さらさらと粉を吹いたように滑らかな表面。硬質な感触。人の小指を模した陶器だった。

 こんな悪趣味なものを誰が持ち歩いてい

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O.sinensis嬢の殺意

「思うに、僕は君の為に死ぬのだろう。O君、だがそれは決して悲嘆に暮れるようなことではないし、僕もそのことで君に恨みを抱いたまま死ぬこともない。だからどうか安心して僕を縊り殺してくれ給え。O君、それこそがあなたの宿命なれば、僕は甘んじて君による死を受け容れよう」

 Hさんは私の耳元でそう呟きました。

 私はと言えば、彼の首筋に腕を絡め、喉元にかぶりつくように抱擁を交わしたまま、Hさんの言葉に耳を

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咀嚼

 銀のカトラリーとボーンチャイナの皿が触れ合ってキイキイ鳴っている。酸味のきいたドミグラスソースと、中までしっかり火の通ったひき肉から滴る脂から、立ち上る香りがイェドの鼻腔をくすぐる。イェドの慎ましやかな掌からはみ出すほどの肉の塊を前にして、彼女は湧き上がる食欲を抑え得なかった。

 空腹というわけではない。つい一時間前にも昼食をとったばかりだ。しかし、イェドはそれでも目前に並んだ手製のハンバーグ

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断層

 あの食い千切られた電話線の裂断面から私という存在が漂流し始めたという事はどうやら真実らしかった。すなわち、その花粉症が悪化することが容易に予想される風の強い快晴の朝、我が家の電話線が何者かによって食い千切られている事に気が付いてしまったその瞬間以来、私という存在は生まれてこの方一度も外へ出たことのない肉体という古巣を離れ、いかにも粗末な筏ひとつで大海に飛び出したポリネシアンのごとくこの地球という

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養殖

 おれの後輩がとある北陸の海沿いの町へ旅行をした際、こんな体験をしたと聞いた。

 * * *

 宿について部屋に荷物を下ろすなり、露天風呂に入る。
 名物なだけあって見晴らしは最高だ。夏の暑さでべたべたしていた体を、熱い湯で流してから湯船に浸かる。ちょうど日暮れ時で、水平線に沈む夕日を堪能しながら体を温めた。
 海べりの崖を望む宿の周りは車通りも少なく、静か。
 潮騒の合間に魚が跳ねるような、

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