断層

 あの食い千切られた電話線の裂断面から私という存在が漂流し始めたという事はどうやら真実らしかった。すなわち、その花粉症が悪化することが容易に予想される風の強い快晴の朝、我が家の電話線が何者かによって食い千切られている事に気が付いてしまったその瞬間以来、私という存在は生まれてこの方一度も外へ出たことのない肉体という古巣を離れ、いかにも粗末な筏ひとつで大海に飛び出したポリネシアンのごとくこの地球という広大な世界への漂流を開始したという事なのである。

 理由など私の卑小な頭脳では理解しようもないけれど、しかし私は次の瞬間自身の後頭部をこの目で見ることとなった。宙返りの頂点で動きを制止することが出来たらこのような視界になるかと思われるような上下逆さまの世界で、私は私の時計回りのつむじを見た。要するに私は宙に浮いていたのである。

 既に抜け殻と化した私の肉体はゆうらゆらと不穏な調子で前後に揺れながらも未だ立ち姿を披露し続けている。そのままでは今にも倒れ前歯の一本も折ってしまいそうな様子であったので、可能ならばせめて床にでも腰を下ろしていてほしかった。いくらもはや脱出した住処とはいえ、徒に傷を付けたいとは思わない。それに不本意ながら、もう一度この古巣に住まうことになるとも限らないのである。抜け出ることが出来た理由さえ不明なのだから、この先何が起ころうとも不思議ではなかろう。

 しかし、それはいくらマナスでありアートマンたる私が中空で念じてみたところで既に私と肉体との接続が断たれてしまっている以上、どうにもしようがないことであろう。些か不安の種は残るものの、私は自身の肉体をその場に立たせたまま捨て置き、晴れて世界へと漂流した。
 
 ところが私は早くも壁に道を塞がれることとなった。比喩でも何でもない、文字通りの壁である。私は、自身の家の壁に阻まれて家より外に出ることが出来ないことに気が付いたのである。物質的肉体という檻を脱出したにもかかわらず、私は未だに物質的世界の軛を外し得ていなかったのだ。私は物質的肉体を喪失したが、物質的世界は未だに私を束縛し続けている。その証拠に、私は1センチメートルにも満たないガラスの薄壁さえ通過することが出来ないでいた。

 私は試しにドアノブに手をかけてみたけれど、どんなに力を込めてみたところでぴくりとも回らない。どこかに開け放したままの窓などは無かったかしらんと家中を探し回ったけれど、そんな窓は1枚も無い。日頃から危機管理意識高く毎晩指さし確認をして回っている私の几帳面さを今だけは呪わずにはいられなかった。

 そんな折、私はふと昨晩寝しなに読んでいた書物の一節を思い出した。或る書曰く、「魔術とは、意志に応じて変化を生ぜしめる学にして術である」らしい。私は別段、魔術家ではないけれど、このような非物質的事象に遭っては昨晩たまたま類書の頁を繰っていたことも偶然ではないように思えてきたのである。私は能動的魔術家では確かになかったが、もしかすると私自身気が付き得ない深層の心理においてはadeptたる資格を既に得ていたのかもしれない。

 この世が意志に応じて姿を変えるというのならば、今、まさしくマナスたる私がこの世を変革するあたわざる事があるだろうか。今こそ、私がこの手で自身の属する世の法則を書き換える時機なのだろう。そうに違いない。私は確信した。

 そして私は物言わぬ合板の扉に右の掌を押しつけ、まぶたを下ろした。変革的な意識を持つに至れば文句は深淵より湧き出づるかと思っていたが、しかし呪言ひとつ思い浮かばない。人の言葉に表し得る呪句など所詮創作に過ぎないかと思い直し、私はただ素直に一心に祈ったのだった。

 私は無神論者である。だから祈る対象は神などではあり得ない。私がこれから通り抜けんとしているのは目の前の扉である。そうであるならば、祈る対象もその扉以外には考えられないだろう。私の祈りを感受すべき器官が扉に備わっているのかどうかは甚だ疑問だったけれど、意により世が変革するというのであれば、きっとそのようなものも存在するに違いない。
 
 まず扉の合板がわずかにたわんだように思えた。私の部屋は古い。戸板の一枚二枚、腐り果てていたとして何の不思議も無い。しかし、先ほどまではちり紙一枚持ち上げることが出来なかったという事実を私は思い出した。そして自身の指先に目をやったとき、私は心に沸き起こる歓喜を抑えることが出来なかった。私の目には私の指先が半ばほどまで合板の扉にめりこむように沈んでいる様子が映っていた。

 それはとりもなおさず、肉体を離れたアートマンでありマナスたる私が物質的の軛を逃れ、非物質的な属性を獲得しつつあることの証左であった。確かに意識は世界を変革せしめた。より正確に言い表すならば、世界に属する私を変革せしめたのだろうが、それは同じ事だろう。

 上なるものは下なるものがごとく、下なるものは上なるものがごとし。この世を司る万物照応の法則に則って、私は世界で世界は私だ。すなわち私の変革は世界の変革なのである。

 やがて私の右腕は指先から手首、手首から肘、肩、首筋へとめり込んだ部位を増やしていった。もう私の右半身は屋外へと出ていることだろう。暖かな日差しと春の風が私の右半身を撫でていく。果たしてアートマンでありマナスたる私のこの姿が一般の人々の目に映るのかどうかは定かではなかったけれど、万が一、人に見られてしまう事があれば厄介なことになるだろう。半身ずつに分断されているようなこの状態では何も対応が出来ない。私は少々焦り始めけれど、いくら焦ったところで扉をすり抜ける速度は変わらず牛歩である。

 左足の親指を最後に、ようやく私の全身が扉の外へすり抜けた。これで全身くまなく非物質性を獲得したはずだ。足首だけを残して不死に変じたどこぞの英雄と同じ轍を踏みはしない。

 念のため、もう一度扉に向かって手を突きだしてみたところ、先ほどよりは素早く扉を通り抜けることが出来た。それどころか、あれほど押しても引いてもびくともしなかったガラス窓でさえ難なく通り抜けられたのである。どうやら最初の一度だけが大きな壁だったということらしい。破瓜の痛みは鋭く大きい。しかしその向こうに立ち現れる世界はこれまでとは大きくその様相を変えている、という訳だ。
 
 漂流である。

 私は漸く物質的の軛を逃れ、我が家の電話線の裂断に始まる漂流を本格的に開始した。漂流とはすなわち遍くこの世に存在することだ。肉体を離れたアートマンでありマナスたる私という存在がこの世界中に薄れ広まることである。それはさながら耕された柔らかな土に種を播くごとく、遍在する私はやがて芽吹き始めるのだ。

 私は私が芽吹く様を夢想しながら、手始めに上空へと浮遊した。雲の世界を超えて更にその上へ、私と太陽との間を遮るものの無い場所へと私は移動する。ここまでの高さになると地上の人間の姿など到底見分けがつかず、地上にいればその存在を意識させずにはおかない高層ビル群でさえただ一面灰色の地面であるようにしか見えない。海の彼方へ目を転じれば、確かに地球は巨大な球体なのだと実感するような、ゆるやかなアールを描いて視界を横切る水平線が見える。

 私は空にうつぶせになり、地面を抱きしめた。

 ゆっくりと私が拡散していくのを感じる。薄れ広がり、漂流していく私という世界の種子。それはこの世界へと降り注ぐ黄金色の慈雨である。かつてアテナイの空を覆ったウラノスのように、私は、今この時、世界の天蓋へと変貌したのだ。

 私が漂流していくにつれ、私の意識も次第に散漫になっていく。この惑星全体に私が漂流し尽くしたその時、恐らく私という存在は限りなくゼロに近いものとなることだろう。限りなくゼロに近づいたアートマンでありマナスたる私は、自身がそのような存在であったことすらも忘却し、あるいはその意味ごと限りなくゼロへと近づき、もはや独自の性質を保持し続けることは不可能だろう。

 物質的世界においてゼロとはすなわち死を意味する。彼の持つ生命存在がゼロになった時、彼は死んだとみなされるのである。しかし、そう、私は今や非物質的世界のいち漂流者だ。私の生命存在は無限に分割されこそすれ、ゼロになることは決して無い。無限分の一の私が再び集合し私を成すことこそないだろうけれど、私はかつて世界中の為政者が追い求めた不死を体現するものなのである。
 
 そして、私は限りなくゼロに近いアートマンでありマナスとなった。

 しかし、私が漂流を開始することとなったあの電話線を食い千切ったのが一体何者だったのか、それは今でも分かっていない。

我が家のねこのごはんが豪華になります