小指

 路地裏にぽっかりと口を開けた階段を下り、行きつけの喫茶店に入ろうとしたぼくは、店の扉の前に小指が落ちていることに気が付いた。ぱっと見、大ぶりな白い芋虫のようにも見える。

 若干気色悪かったものの、ぼくはおそるおそるそれを拾い上げた。触れてみると意外なほどひんやりとしている。さらさらと粉を吹いたように滑らかな表面。硬質な感触。人の小指を模した陶器だった。

 こんな悪趣味なものを誰が持ち歩いていたのだろう。ここに落ちているということは、きっとこの喫茶店の客の一人なのだろうが……。

 扉の軋みをドアベル代わりに入店すると、店主はいつもの穏やかな笑顔でぼくを迎え入れた。ぼくも会釈を返しながら、いつも座る席につく。ここで「いつもの」などと注文ができれば様になるというものだが、悲しいかな、ぼくは毎回頼むものが違う。毎度、座を占め、メニューを開くまでは何を頼むか考えもしていない。

 今日はモカにした。

 店主がコーヒーを淹れる間、ぼくはさっき拾った小指をポケットから取り出して、とっくりと眺めてみた。店内の薄暗い灯りの下で見ると、本物の人体のように見えてくる。作り物だとこの目で確かめたにもかかわらず、爪が桜色に色づき、血管が脈打っているようにさえ感じられる。

 何かの拍子に折れてしまったのだろうか、指の根元はぎざぎざに波打っている。陶器の割には軽いなと思っていたら、中空の円筒になっていた。5ミリメートルほどの厚さの粘土の膜が、このように精巧な造形を生み出しているのだと思うと、素直に感心した。

 やがて店主がお待ちどうさまと言ってカップを差し出した。ぼくが温かな湯気とともに立ち上る香気を堪能しようとカップを口に近づけたとき、背後で誰かが扉を軋ませた。

 板張りの床に小気味よく響く足音。

 きっと女性だろう。

 果たして、彼女はぼくの真横に腰を落ち着けた。

 水のグラスとメニューを差し出す店主を完全に無視し、彼女はぼくに言った。

「私の指、返してくださらない」

「あなたの指なんてぼくは知らない」

 ぼくは咄嗟に嘘をついた。

 右手に握りこんだ小指が拳からはみ出してやしないかと気が気ではなかった。今思えば、ぼくの拾った小指が彼女のものだとは限らなかったのだが、そのときは確信していた。

 彼女は鏡面仕上げの瞳でぼくを見据え、唇だけを動かした。

(ほんとうに?)

 ぼくが答えないでいると、彼女は席を立ち、無言で扉を軋ませて去った。扉を開けるときに見えた彼女の手は、白い手袋に覆われていた。

 ぼくはそれ以来、あの喫茶店へ行かない。今ではあのビルも無くなったから、店も一緒に潰れてしまったかもしれない。

 小指はフィルムケースに納めたまま、今でも肌身離さず持っている。

我が家のねこのごはんが豪華になります