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大切なものは、少ないにこしたことはない。

去年の今ごろ、かなりの断捨離をした。

根っからの引っ越し嫌いで、何なら一生ここで暮らしたっていいやと思っていたのに、アパートの床から水が出たのだ。業者さんが見てくれたところ、原因は床の老朽化で、だから床を全部ひっぺがして、ベランダの給湯器から風呂場に向かって部屋を縦断している管をなんとかしないといけないらしかった。

「だから、1日2日かけて、床全体を張り替えますんで!」

まじか、と青くなった。床全体を張り替える、ってことは部屋にある本棚も本もベッドもテーブルも椅子もテレビもビデオラックもみんなみんな、この部屋から引き上げなきゃいけないんですか!?

いけないんでした。泡を食った。大量のダンボールをもらってきて、しぶしぶと、部屋から全荷物、全家具を引き上げた。

私のベッドの下には、これまでン十年と溜め込んできた、大量の演劇パンフが眠っていた。ン十年のあいだ触ってもいなかったカセットテープの山も出てきた。いまや配信サービスで好きなだけ観ることができる映画の録画テープの山や、この部屋に来てからほとんど手にとっていない本の山も。

この際、全部、捨てることにした。

演劇パンフのたぐいは、喜んで引き取ってくださる方があったので、その方におまかせすることにした。それ以外のものたちは、「これから使うか否か」のみを判断基準にしてがんがん捨てた。だって思い出なら、モノそのものがなくたって、私の脳みその中に残っているから。モノなしには思い出せない思い出なんてのは、たぶん、大したアレではないのだ。

そしたら、ベッドの下も本棚も、すっからかんになった。

あれから1年。ベッドの下はすっからかんのまんまだ。空きが出た本棚の一段は、そのまま備蓄マスク置き場になった。

自分はわりと、「なくても特に困らないもの」に囲まれて生きているのだなと知った。そして、「引っ越し」の意義も、同時に知ったのだ。

人間って、生きてるだけで、たくさんのモノがまとわりついてくる。荷物。出来事。人間関係。記憶。ぜい肉。それこそが人生の財産だとは思うけれど、その財産たちを「これから先、要るもの」「要らないもの」に仕分ける作業が、やっぱりどこかで必要なのだ。でないと人間の図体は、ただただむくむくとふくらむばかりだ。

この前YouTubeを観ていたら、とある主婦のモーニングルーティーンが流れてきた。夫の弁当を作り、朝ごはんを作り、夫と向き合って食べ、出かけていく夫を見送る。カメラはそんなふたりの玄関先の足元を写し取る。妻が夫に近寄り、一瞬だけ背伸びをする。そして夫は出てゆき、妻はそこからしばらく、開いたままのドア際から離れない。

彼女はそのドア際の数十秒間に、去りゆく夫の背中を見つめながら、彼の今日1日の健康と、道中の無事を祈るのだそうだ。それらがどれだけ得難い幸福なのかを、彼女は最近思い知ったという。

たいへんな人生だなあ……!と思ってしまう。決して失いたくない、でもいつか失うかも知れない大切なものが、自分の身の回りに増えていく人生。私はそれが何よりも恐ろしい。「失いたくないもの」をいったん作ってしまったら、それらを失う日を拒むことも避けることもできず、でもどこをどう歩いたところで、「失う日」は何らかのかたちで、どちらが先にしろ必ず訪れる。そしたら、自力ひとつで、平常心を取り戻さなければならない。

みんな平気な顔して、それをやってのけている。そしてそれこそが「幸せ」なのだと口をそろえる。えーー怖い。怖いよ。怖くないの、みんな。

「なくても困らないもの」に囲まれて生きる人生。「身軽だ」とする人もいれば、「寂しい」とする人もいるだろう。少なくとも私は、そういう人生しか、今は知らない。

これから、どうなるんだろうね。革命の日は来るのかな。来ないのかも。どっちにしろ私は、そのときどきの、私の幸福を生きる。(2020/10/24)

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