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【読書感想】サコ学長、日本を語る

アフリカのマリ共和国出身で、京都精華大学の前学長のウスビ・サコさんをの著作を読みました。

教育に関する話題が中心となりますが、私のような典型的社畜にもぐさぐさ刺さる内容だったので、ぜひ皆さんにもお伝えしたく記事を投稿します。


アフリカ出身 サコ学長、日本を語る
著者:ウスビ・サコ 2020年発行


大企業と学校はよく似ている

そこそこの歴史のある日本企業にお勤めの皆さん、毎日がんばって働くあまり、会社中心の生活になっていませんか?

毎朝一人で朝食を食べて出勤、日中はトラブル対応に追われ、帰宅する頃にはすっかり疲れて家族団欒の時間はそこそこ、最低限の家事を済ませたら後はベットにごろん。
そんな毎日だけど、仕事にやりがいがないわけではないし(くだらない雑務も多いけど)、安定した稼ぎもあるし、まあそこそこがんばれる。

この状態、学生時代と似ていませんか?

サコさんは、このように語っています。

日本の子どもたちを取り巻く環境で最も懸念するのは、日々の生活にまつわるあらゆる要素が学校に集結し、人生そのものが学校中心になっている現状だ。部活も友達も、全てが学校にあるため、学校以外のものが考えられないような時間のつくりになっているように見える。

p.128

ゆる進学校で部活動に励んでいた私は、まさにそうでした。
朝練のために早起きして通学、学校に行けば授業と部活、帰ったら家族と談笑する余裕もなく宿題やテスト勉強。大変だけど、部活友達とわいわいするのは楽しいし、テストでいい点がとれるとうれしいからがんばれる。

まさに学校中心の生活でしたが、それが「当たり前」であり、疑問を覚えたことは一度もありませんでした。

でも、9年も社畜生活を続けた今、サコさんの文章を読んで、「あれ、もしかして会社中心の生活に違和感なく今馴染めているのは、学校の影響が大きいのかも…?」とハッとしました。

サコさんは、このようにも語っています。

大学に進学する学生の大半は、おそらく、小中学校や高校のフレーム化教育に何の疑問も持たずに過ごしてきている。ものごとの本質を見ようとせず、意識も高くないケースが少なくないだろう。いかにそこを崩して脱出させるかーーというところに、私はかなり苦労している。

 p.139

自分のことを言われているようで、胸に突き刺さります。

社畜は教育現場によって養成されている!?

サコさんは日本の一般的な教育現場(学校だけではなく、家庭など学校以外の場所も含みます)について次のような指摘をしています。

  • 「すべきこと」ばかりを与え、自分で物事を選択する力が育たない

  • 「普遍的な人間」になることを求めがち

  • 親も先生も、「社会で使えるかどうか」という基準で物事を判断する

  • 多くの経験をもっている大人の方が正しいと信じ込み、大人は子どもに考えを押しつけがち

  • 常に将来に繋がることをしていないとダメだという雰囲気にのまれている

私の学生時代も、言われてみれば上記のような状況でした。
そして、これは大企業によくいる会社員像と重なります。

  • 自分で選択することを避ける(会社に決めてもらった方が楽と考えたり、そもそも自分で選ぶという選択肢を思いつかない

  • 周りに合わせて行動することは正しいと無条件で信じる

  • 定量的に測れる成果がないとダメだと思う

  • 経験を積んだ上司は正しいと考え、何かあったときは自分ではなく正しい指示をしなかった上司が責任をとるべきだと思う

  • 何かにつけて楽ができず、ついつい仕事を抱えてしまう

これは私見ですが、会社からの指示命令に素直に従い、あれこれ言わなくとも勝手なことをしない、扱いやすい”いい子ちゃん”になるための基礎課程が、今の教育現場でなされていると言えるのではないでしょうか。
知らぬ間に私もすっかりいい子ちゃん養成基礎課程を優良成績で終えていました...愕然とします。

教育現場は学校だけじゃない

ここまで、ともすると学校批判のような印象を与えてしまったかもしれませんが、サコさんは学校だけが悪いとは考えていません。

学校というものに対する日本の人々の過剰な期待感に、私はビックリしている。(中略)
本来は、家や地域でやるべき教育があり、役割分担がある。けれど、その多くが学校に任されていて、そのことによって学校が不自由になっているようにも見える。

p.128

「学校は一律的だ」「子どもの個性を伸ばしてほしい」と考える親も少なくないらしいが、学校というのは、基本的にはみんなが同じフレームで学ぶ場所。一人ひとりが持っている個性を尊重することは大切だけれど、そこで個性はそれほど育たないし、育てることを学校に求めなくてもいいのではないか。

p.130

日本の大人たちは、子どもたちがどうすればフレームの外の時間や外の人間関係を確保できるかを議論すべきなのに、フレームを巨大化させることばかりを考えてはいないだろうか。そうなると、子どもは四六時中囲い込まれ、教員は疲弊し、学校の負担も増えてしまう。
方向が逆だと、私は思うのだ。
日本の教育課程、いわゆる学習指導要領がつくられ、各学校がそのカリキュラムに従って国が描く日本人像を定めること自体は、評価できる部分もある。子どもたちが、それを守りつつ、社会や家族などの影響を受けて成長することができないということに、日本の教育の大きな問題があるのではないだろうか。

p.131

学校にできることは限界がある
だから学校以外での教育(例えば、家族や地域の人から道徳や倫理観、生活の知恵などを学ぶなど)は大事なのだ。個性や自分で生きるための力は、学校以外の場で身につけるものなのではないか、というのがサコさんの主張です。

昨今「学校に問題がある」「先生の能力不足だ」のような意見を述べる親御さんが多いようですが、学校や先生に責任を負わせるのではなく、親が与えられる教育(学校で教える教科勉強とは違う教育)もたくさんあり、むしろその方が大事なんだと気づいてほしいと切に思います。
親が学校に責任を求めるほど、学校や先生は自由なことができなくなります。それは学校教育の質の低下を招き、子どもたちのためにもなりません。
(長年教師として働いていた自分の親の話を聞くとなお、そう思います)

何はともあれ、もう学生を卒業してしまった人は
自分の置かれた状況を客観的に見つめ直してみよう

これまで長年枠にはめてきた日本の学校教育は、本質的には変わらない。そうなると、「学校教育はある意味で日本人養成課程なのだ」ということを認識できている自分がいるかどうかが、重要になる。認識した上で、自分で判断し、「自分のためになるからこの教育を受けておこう」と選択できればいい。そこは「選択の結果」でなければならない。
選択の結果にならないまま、「生きていく道はそれしかない」と思い込んで必死になったり、その教育を受けること自体が強制されていったりする現状があるならば、それは問題だと考えている。

p.132

サコさんは教育について上のように述べていますが、これは教育に限った話ではないように思います。自分ひとりでは変えられない環境はしょうがないので「まずは自分の置かれている状況を正しく認識できるかが重要」であり、「こういう状況だから自分は〜〜を選択しよう」と行動すべき、という主張はどんな物事に当てはめることができるのではないでしょうか。

私はもうすでに中堅社員ですが、この本を読んで、自分の受けた教育や今の職場環境との繋がりを考えたり、この先自分はどういう行動をすべきかを改めて考えることができました。

余談(英語に興味がある人向け)

唐突ですが、形容詞「old-school」の意味を知っていますか。
形容詞なのでもちろん「古い学校」という名詞ではありません。

Cambridge Dictionary では「old-fashioned; not modern:」という語釈が書かれています。つまり、古臭い昔っぽい、というような意味合いです。

せっかく教育と古臭い日本企業(old-school company)の関係性について触れたので、余談として紹介をします。こういう単語をしれっと使えると、IELTSのスピーキングテストでは評価がよくなりますよ!(体験談)

おすすめしたい人

教育の話が中心であり、話し言葉が織り交ぜられたカジュアルな文体なので、中高生にはまずおすすめです。また、お子さんのいる方も興味深く読めると思います。
それから、日本とはまるで違うマリの文化を垣間見ることができるので、異文化に興味がある方、旅行好きな方も楽しめます。

でも私自身としては、「会社に自ら縛られにいってしまうような社畜性はどうやって養成されるのか」の深淵が見れたような気持ちになるインパクトのある本だったので、自称社畜さんにもおすすめです!

その先に道は無いと分かっていても、進みたくなることがある

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